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説教題目

人の掟を捨て、神の言葉に生きる

日付

2025-12-07

御言葉

マルコによる福音書7章1〜13節

 はじめに:なぜ手を洗うのか?
 本日お開きの箇所は、エルサレムから来たファリサイ派の人々と律法学者が、主イエスの弟子たちが「昔の人の言い伝え」 に従わず、洗わない手で食事をしているのを見て、イエスに抗議した場面です(1節)。彼らが問題とした「手を洗う」という行為は、単なる衛生ではなく、「日常の汚れ」 を切り離し、自らを宗教的に清めるための儀式でした。彼らは、清さを保とうとするあまり、旧約聖書にない細かな伝承を固く守ることに必死になっていたのです。しかし、主イエスは、弟子たちの行いではなく、この指導者たちの心の姿勢にこそ、より根深い問題があることを指摘されます。

 偽善と自己義認の掟
 主イエスは、彼らに対し、預言者イザヤの言葉を引用して「偽善者」だと断罪されます(6節)。「偽善」とは「役を演じる」という意味の言葉であり、彼らは神ではなく人間を見つめて、「あの人は清い者だ」と思われるために、神に従う役を演じていたのです。彼らは、口先では神を敬いつつも、実際は「人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」(7節)。イエス様は、「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」(9節)と指摘されました。彼らは、自ら掟を立て、それに忠実になることで、自分自身をあがめる歩みをし、神の言葉をないがしろにするという、見事に美しい(見栄えの良い) 罪を犯していたのです。この自ら清さを掴もうとする歩みは、必ず神よりも人間に目を向けることにつながります。

 「コルバン」による愛の戒めの無効化
 主イエスは、この罪がもたらす恐ろしい結果を、「コルバン」 の慣習を例に挙げて示されました。神は十戒で『父と母を敬え』、すなわち老いた親を経済的・物質的に支えよと命じられました。しかし、彼らは、「親に差し上げるべき財産は『コルバン(神への奉納物)』である」と宣言すれば、親への義務を逃れることができるという掟を立てたのです。彼らは、「神様に仕えること」を理由に、神が与えられた最も基本的な愛の戒め(親孝行)に背きました。イエス様が指摘されたのは、「最も敬虔そうな歩みをしているように見えながら、実際は神の言葉が無にされている」という、偽善の極致です。

 神の言葉を無にしない生き方
 私たちもまた、キリスト者の習慣(祈り、奉仕など)を自分たちの「掟」にしてしまう時、同様に神の言葉を無にします。自分の掟に縛られ、自分自身や隣人を裁く罪が潜んでいるのです。自ら清くなろうとするその歩みが、真の神の言葉である主イエス・キリストを「神を冒涜した」として十字架につけるという人間の罪を生み出しました。しかし、神の言葉は、私たちが自ら清くなるために守るべき掟ではありません。むしろ、肉となって来られた主イエスの歩みの中にこそ、真の神の言葉が示されています。罪の中にある私たちを清めるために、十字架にまでへりくだり、死なれた主イエスこそが神の言葉そのものなのです。私たちは、自らの掟を立てて清さを掴もうとする歩みを止め、主イエスがなされた罪の赦しと恵みに自らを委ねて歩む時、人々の掟から解放され、隣人を赦しつつ生きることができるのです。

 結論
 私たちは、自ら立てた掟に縛られ、神の言葉を無にする罪を悔い改め、主イエス・キリストの恵みによって、神の言葉の真意である神と隣人への愛に生きる者とされましょう。

 祈り
 恵み深き主なる神様、私たちはしばしば、外面的な形式や、自らの都合の良い掟に縛られ、真の愛の戒めから逃れてしまう罪を犯しています。私たちの心の偽善を赦し、主イエス・キリストが肉となって示してくださった、神の言葉の真の重さと、謙りによる愛を悟らせてください。あなたの御言葉への心からの従順と愛をもって生きる力を与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

~お祈り題目~ 

・信徒120人達成のため ・新教会堂建築のため
みなさま、お祈りをお願いします。

人と人が集まり、つながる教会づくり

電動マイクロモビリティポートを設置

・​わかまつ子ども食堂

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