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はじめに
本日お開きの聖書箇所は、「金持ちの青年」として知られる人物と主イエス・キリストの出会いの記録です。彼は永遠のいのちを得るために、走り寄り、ひざまずき、「善い先生、永遠の命を受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」と真剣に尋ねました(17節)。この姿は、彼がどれほど切実で熱心な信仰の探求者であったかを物語っています。この物語は、先日扱ったマタイによる福音書(19章16〜30節)にも記録されていますが、マルコの記述には、この青年の真剣な態度と、それに応じるイエス様の特別な行動が詳細に描かれています。私たちは、このイエス様の「愛のまなざし」に焦点を当てながら、私たち自身の信仰の「たった一つ欠けているもの」は何かを問うていきたいと思います。
イエスの愛のまなざしと、隠された偶像
青年は、律法に定められた掟を「すべて、小さい時から守ってきました」(20節)と自信をもって答えます。世間的に見れば、彼は模範的な人物でした。しかし、その時、マルコは驚くべき一文を書き記します。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(21節、口語訳:「愛して言われた」)。この慈しみのまなざしの中で、主イエスは青年の心に潜む、神と富への二重の忠誠心を見抜かれました。そして、彼が律法を守る以上に大切にしていた、たった一つ欠けているものを指摘されます。「あなたには、一つ欠けているものがある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。
イエス様は、この青年を試されたのではなく、愛のゆえに、彼が永遠のいのちよりも優先していた偶像(富という安心感)を断ち切るように導かれたのです。彼の富は、神の祝福のしるしであるという当時の通念に反し、この青年にとっては、神の国への最大の障壁となっていました。その結果、青年は悲しみながら立ち去りました。彼の心は、地上に財産を積む生き方から、天に財産を積む生き方へと転換することができませんでした。
人間には不可能、神にはすべてが可能
この出来事を見て、弟子たちは驚き、「それでは、いったい誰が救われるのだろうか」(26節)と尋ねます。当時の人々にとって、富は神に祝福された証であり、その富を持つ者が救われないならば、誰にも救いはあり得ないと考えたからです。
イエス様は、有名な言葉を語られます。「金持ちが神の国に入るのは難しい。らくだが針の穴を通る方が、金持ちが神の国に入るよりやさしい」(25節)。この言葉は、富や功績に頼る私たち人間が、自らの力や努力によって救いを勝ち取ることがいかに不可能であるかを端的に示しています。しかし、ここで絶望に終わらないのが福音です。イエス様は続けて断言されます。「それは人間にはできないことだが、神にはできる。神には、どんなことでもできる」(27節)。救いは、私たちの功績や富によってではなく、神の計り知れない恵みによってのみ可能となるのです。
全てを捨てて従う者への約束
これに対し、ペトロは「御覧ください。わたしたちは何もかも捨ててあなたに従いました」(28節)と、彼らの徹底した献身を語ります。マタイ福音書が弟子の報いへの関心に焦点を当てているのに対し、マルコは、弟子たちがすでに「すべてを捨てた」という決断の重さを強調しています。主イエスは、その捨てたもの(家族、家、畑など)に対し、この世で百倍の報い(迫害を伴うが)と、来るべき世で永遠の命を与えると約束されます(29-30節)。真の弟子としての生き方は、この世的な成功や序列を求めず、ただイエス様を信頼し、従うことです。この生き方こそが、天に真の財産を積む生き方なのです。
結論
主イエスの愛のまなざしは、青年の「たった一つ欠けているもの」が、富への執着であることを示しました。神の国に入ることは、自分の誇るものを手放し、無力な子どものように神の恵みにすべてを委ねることです。それは、私たちの力では不可能ですが、神の揺るぎない力によって可能となります。私たちは、この世の価値観にとらわれることなく、イエス様を信じ、すべてを委ねて従うことによって、神の国の豊かな恵みを受け取り、天に財産を積む生き方を歩みましょう。
祈り
恵み深い父なる神様。あなたの御名を賛美いたします。私たちの心の奥底にある、あなたよりも優先している偶像や地上の財産への執着を、あなたの愛のまなざしで照らしてください。自分の力や功績に頼ろうとする私たちを赦し、子どものような素直な心であなたの恵みにすがり、すべてを委ねて従う者へと変えてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。