電話:03-3359-9539
住所:東京都新宿区若松町8-3
最寄駅:大江戸線「若松河田駅」より徒歩3分
はじめに
本日は、主イエス・キリストの復活を祝うイースター(復活祭)です。教会は喜びに満ちて「主はよみがえられた」と讃美します。しかし、聖書が描く最初のイースターの朝は、歓喜ではなく、「恐れ」と「深い悲しみ」に包まれていました。マルコによる福音書に登場する婦人たちは、十字架で死んだイエス様に香料を塗るために墓に向かいました。彼女たちの心は「死という絶対的な絶望」に支配されており、「墓の入り口の重い石を誰が転がしてくれるのか」という自分たちの力では決して動かすことのできない壁、すなわち「どうにもならない死の現実」に直面していたのです。
本論
墓に着くと石はすでに転がされ、天使から「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げられます。しかし、婦人たちは喜ぶどころか、震え上がり、恐ろしさのあまり逃げ出して誰にも何も言えませんでした(マルコ16:8)。また、ヨハネによる福音書が描くマグダラのマリアは、空の墓の前でただ泣き崩れていました。彼女は「誰かが主の遺体を盗んだ」と思い込んでいます。そこに復活の主ご自身が近づき、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と声をかけられますが、マリアは悲しみで目が曇り、彼を「園丁(えんてい。墓地を管理する庭師)」だと思い込んで、目の前におられるのが主であることに全く気づきません。これが、私たちの偽(いつわ)らざる現実です。私たちは自分の抱える悲しみや絶望、自分では動かせない重い石のような現実の問題にばかり心を奪われ、すぐそばにおられる復活の主の姿を見失ってしまいます。人間の努力や知恵では「死の現実」に打ち勝つことはできず、自らの力で「復活」を信じ切ることなどできない弱い存在なのです。しかし、その絶望のただ中に、圧倒的な恵みが介入します。泣き続ける彼女に対して、主はただ一言、こう言われました。「マリア」(ヨハネ20:16)。一般的な「婦人」としてではなく、彼女個人の名前で呼ばれたのです。その瞬間、マリアの閉ざされていた目は開かれ、「ラボニ(先生)」と応えました。復活の信仰とは、私たちが頑張って信じ込むこと(律法的な努力)ではありません。自分の悲しみや罪の闇の底にうずくまっている私たちのところへ、死を打ち破られた主ご自身がやって来て、私という一人の人間の名前を呼んでくださる。理屈や説明ではなく、その圧倒的な愛の呼びかけによって、私たちが新しく立ち上がらせていただく「恵みの出来事」なのです。
結論
キリストの復活は、遠い昔の神話ではなく、今を生きる私たちのための出来事です。あなたが今、どれほど深い暗闇の中にいても、解決の見えない現実に涙していても、恐れることはありません。死に打ち勝ち、永遠の命となられた主イエスが、今日もあなたのもとに来て、あなたの名前を優しく呼んでおられます。この復活の主の呼びかけに応え、光の中を共に歩み出しましょう。
祈り
天の父なる神様、主イエス・キリストの復活の恵みを心から賛美いたします。私たちはマグダラのマリアのように、目の前の現実の悲しみや絶望に心を奪われ、すぐそばにおられる命の光に気づくことができない弱い者です。自らの力で死の恐れに打ち勝つことはできません。しかし、復活された主イエスは、そのような私たちの暗闇のただ中に立ち、一人ひとりの名前を呼んで、絶望から命へと立ち上がらせてくださいます。どうか、今日ここに集う私たちが、自らの弱さを抱えたままで、復活の主の真実の呼びかけを聞き、復活の喜びと希望の光に包まれて歩み出すことができますように。死を打ち破られた復活の主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。