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はじめに
本日の聖書箇所は、十字架にかかる前夜、最後の晩餐の席での出来事です。冒頭の31節で「今や、人の子は栄光を受けた」と語られています。この「人の子」とは、イエス様ご自身のことです。直前の30節で、弟子のユダがイエス様を裏切るために「夜の暗闇」へと出て行きました。普通に考えれば、弟子の裏切りによって処刑へと向かうのは「絶望」や「敗北」です。しかしイエス様は、ご自身が人間の罪をすべて背負って十字架で命を捨てることこそが、神の愛が完全に現される「栄光」であると宣言されたのです。その十字架の愛を前提として、主は私たちに極めて重要なメッセージを語られます。
本論
イエス様は弟子たちに言われました。「新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)。「互いに愛し合う」。これは非常に美しく、大切な言葉です。しかし同時に、私たちを深く打ちのめす言葉でもあります。なぜなら、私たちの現実はどうでしょうか。自分の損得のために平気で他者を傷つけ、気に食わない相手を排除し、家族や身近な人すらも心から愛し抜くことができないという、自己中心的な罪の闇を抱えています。もし「互いに愛し合いなさい」という言葉が、私たちが自力で頑張って守るべき「律法(道徳的なルール)」であるならば、私たちは絶望するしかありません。しかし、これは私たちを縛り付ける律法ではありません。この掟の最も重要な鍵は、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉にあります。イエス様は、裏切り者のユダの足をも自ら洗い、自分が十字架につけられる時にクモの子を散らすように逃げていく弱い弟子たちの
ために、ご自身の命を投げ出されました。私たちが立派だから愛されたのではありません。愛する価値のない、自己中心の罪にまみれたありのままの私たちを、主がまず先に十字架の命がけの愛で完全に愛し、赦し抜いてくださったのです。「キリストの掟」とは、「頑張って人を愛せる立派な人間になりなさい」という命令ではありません。「あなたはすでに、神の独り子が命を捨てるほどに愛され、完全に赦されている。だから、その圧倒的な恵みに安心して寄りかかり、不完全なままで互いに赦し合い、受け入れ合って生きなさい」という恵みの招きなのです。
結論
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)。教会の証しとは、私たちが欠点のない立派な人になることではありません。「愛せない」という弱さを抱えた私たちが、それでもキリストの十字架の愛(恵み)に生かされ、互いの弱さを赦し合って共に生きる姿にこそ、真の救いの光が現れるのです。
祈り
天の父なる神様。「互いに愛し合いなさい」という主の御言葉の前に立つとき、私たちは自分がいかに愛に乏しく、自己中心的で弱い者であるかを思い知らされます。自らの力で、この掟を守り切ることはできないかもしれません。しかし、「人の子」である主イエスは、そのような愛なき私たちのために十字架への道を歩み、その命を捨てることによって「わたしが愛したように」という圧倒的な恵みで私たちを包み込んでくださいました。どうか、私たちが自分の力で愛そうと無理をして律法に縛られるのではなく、まず私たちがどれほど深く愛され、赦されているかを知る恵みをお与えください。そして、その主の愛に生かされ、不完全ながらも互いに赦し合い、重荷を負い合う教会として歩んでいくことができますように。私たちを愛し抜いてくださった救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。