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はじめに
本日は受難週の始まり、棕櫚(しゅろ)の主日です。いよいよ主イエスが十字架にかけられる歩みを読みます。イエス様が十字架を背負って歩まれる途上、キレネ人のシモンが「無理に」十字架を担がされました(21節)。彼はたまたま通りかかっただけで、全く理不尽に重荷を負わされました。しかしこの出来事は、イエス様がご自分で十字架を背負いきれないほどに肉体を打ち砕かれ、人間の極限の弱さを味わい尽くしておられたことを示しています。同時に、私たちが人生で理不尽な重荷(十字架)を負わされるとき、まさにその重さのただ中に、主イエスが共にいてくださることをも教えています。
本論
一行は「ゴルゴタ」に着きます。これは「されこうべの場所」という意味で、死と処刑の場、まさに人間の罪と絶望の終着点です。イエス様の罪状書きには「ユダヤ人の王」と記されました。人々は、イエス様が反逆者として王を自称した(偽証した)とあざけりましたが、実は、力や支配によってではなく、身代わりの愛によって私たちを救う「まことの救い主(メシア)」としての姿がそこに示されていました。十字架につけられたイエス様に、人々は数多くの侮辱を浴びせました。「十字架から降りて自分を救ってみろ」「他人は救ったのに、自分は救えない」。彼らはイエス様を無力だとあざ笑いました。しかし、イエス様は本当に自分を救えなかったのでしょうか。違います。主は「意図的に」十字架から降りなかったのです。もしご自身の力で自分を救ってしまえば、私たちの罪をすべて償うことはできず、私たちを救うことはできなくなるからです。イエス様は、私たちを救うために、あえてご自身を救わない道を選ばれました。昼の十二時になると全地が暗くなり、午後三時まで続きました。この暗闇は、人間の罪に対する神の裁きと沈黙を表しています。そして午後三時、イエス様は大声で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。それは、私たちが本来受けるべき「神から見放される絶望」や「究極の孤独」を、主が身代わりとなって完全に引き受けてくださった叫びです。息を引き取られた姿を見て、処刑の責任者であるローマの百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と告白しました。奇跡や力を見たからではなく、自分を救わず、誰からも見放されながらも命を捧げ尽くすその極限の弱さの中に、人間の罪を償う「真の神の愛」を見たのです。また、遠くから見守っていた多くの婦人たちの存在は、弟子たちが逃げ去る中で、イエス様が日頃から社会の片隅に追いやられがちな弱い者たちにどれほど温かく寄り添い、愛を注いでおられたかを物語っています。
結論
十字架への道。それは、神の御子が私たちの罪のために徹底的に弱くなり、ご自身を救うことなく、誰からも見放されるという究極の孤独を引き受けてくださる道でした。律法の行いによってではなく、この圧倒的なキリストの恵みと真理によって、私たちは今、神の愛に招かれています。私たちの身代わりとして十字架に留まってくださった主を見上げ、この受難週を歩んでまいりましょう。
祈り
天の父なる神様。私たちは、十字架の下で主をあざける者たちと同じように、自分の思い通りにならないとあなたを疑い、見下してしまう罪深い者です。しかし主イエスは、十字架から降りてご自身を救う力を持ちながらも、私たちを救い、罪を償うために、あえてその場に留まり、私たちの身代わりとして命を捨ててくださいました。私たちが受けるべき「神から見捨てられる」という究極の孤独と苦しみを、主がすべて引き受けてくださったことを感謝します。どうか、極限の弱さの中で成し遂げられた十字架の愛に深く触れ、あなたの恵みによって生かされるこの受難週となりますように。私たちを救うために、ご自身を救われなかった主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。