電話:03-3359-9539
住所:東京都新宿区若松町8-3
最寄駅:大江戸線「若松河田駅」より徒歩3分
はじめに
先週の説教箇所であった出来事から六日後、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて高い山に登られました。ヤコブとヨハネは、後に神の国での地位や名誉を求めるような弱さを持った等身大の罪人たちでした。そしてペトロは、先週学んだように、イエス様から「十字架にかかって殺される」という受難の予告を聞いて主をいさめ、逆に「サタン、引き下がれ」と厳しく叱られたばかりの弟子です。そんな彼らの目の前で、イエス様の服が真っ白に輝きました。それは、やがて十字架の死を経て現される「復活の栄光」であり、イエス様がまことの「神の子」であるという真実の姿が一瞬だけ示された出来事でした。
本論
そこに旧約聖書を代表する二人の人物、モーセ(律法)とエリヤ(預言者)が現れ、イエス様と語り合います。これは、旧約聖書が指し示してきた神の救いが、今、イエス様において完全に実現しようとしていることの証明です。この圧倒的な栄光を前に、ペトロは恐怖しつつも「仮小屋を三つ建てましょう」と言い出しました。ユダヤ教には「仮庵(かりいお)の祭り」という、かつて荒れ野で神様が共にいて守ってくださったことを記念し、やがて来る神の国の完成を祝うお祭りがあります。ペトロは輝く主を見て、「ついに栄光の神の国が来た!ここにテントを建てて、ずっと留まりましょう」と提案したのです。しかし、その本心には「人間の弱さ」と「逃避」がありました。先週見たように、ペトロが思い描いていた救い主とは、力と栄光に満ちた勝利者であり、苦しい現実から解放してくれる「強い英雄」でした。苦しみを受け、惨めに殺されてしまう無力な救い主など、彼の頭にはなかったのです。だからこそ目の前の輝く姿を見て、「これこそ私が求めていた救い主だ。十字架が待つ山の下にはもう行かず、ここに定住しましょう」と願ったのです。私たちも同じです。礼拝の中で心満たされたり、人生が順調で神の恵みを感じたりする時、その心地よい「山の上」にテントを張り、病気や直視したくない自分の罪が渦巻く「山の下の現実」から逃避したくなります。しかし、その思いを遮るように雲が覆い、御父である神様の声が響きました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」(7節)。神様は、「栄光の山に逃げ込もうとするな。これから十字架の苦難へと向かう、この愛する子の言葉(受難の予告)にこそ聞き従いなさい」と命じられたのです。
結論
神の御声の後、イエス様はいつもの姿に戻り、彼らを連れて山を下り始めます。山の上で栄光に満たされること、それは信仰のゴールではありません。山の下には、悪霊に苦しむ少年や不信仰な群衆という「現実の闇」が待っています。受難節の歩みの中で、私たちは自分の都合の良い救い主像を打ち砕かれます。真の救いとは、私たちが山の上に逃げ込むことではなく、栄光の主が私たちの痛む現実のただ中へと共に下り、私たちのために十字架の苦しみを受けることによって成し遂げられます。この主の背中を見つめ、感謝をもって自分の現実の生活へと降りていきましょう。
祈り
天の父なる神様。私たちはペトロのように、苦労を取り除いてくれる「便利な神様」を求め、痛む現実から目を背けて心地よい場所にテントを張りたくなる弱い者です。しかし主イエスは、そのような私たちの身勝手な思いを退け、輝かしい山の上にとどまることなく、私たちの病み、傷ついた現実の生活のただ中へと降りてきてくださいました。どうか今、「愛する子に聞け」というあなたの御声に従い、私たちが自分の浅はかな思いを十字架の前に降ろし、私たちのために苦難の道を歩み抜かれた主イエスにのみ目を向けさせてください。私たちの現実の闇を共に歩んでくださる主の深い愛に気づき、この受難節を歩み抜くことができますように。私たちの弱さを担う真の救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。