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説教題目

悪と戦うキリスト─強い人を縛り上げる愛

日付

2026-03-01

御言葉

マルコによる福音書3章20節〜27節

はじめに
主イエスのもとに群衆が集まる中、律法学者たちは「彼はベルゼブル(悪霊の頭)の力で悪霊を追い出している」と非難しました。ベルゼブルとは当時、サタンを指す呼び名でした。彼らは、イエス様が人々を解放している聖霊の御業(みわざ)を見ていながら、それを「悪魔の力」だと決めつけたのです。

本論
これに対しイエス様は、「どうしてサタンがサタンを追い出せようか」と反論されます。国も家も、内輪で争えば立ち行かず滅びてしまいます。イエス様が悪霊を追い出しているのは、サタンと仲間だからではなく、敵対し、打ち倒しているからです。ここでイエス様は「強い人」のたとえで語られます(27節)。「まず強い人を縛り上げなければ、その家を略奪することはできない」。この「強い人」とはサタンのことです。私たちは自分の努力でこの強い人に勝とうとしますが、それは不可能です。小学校から中学校に上がる際、私はいじめに遭わないように自分の身を守るために、部屋にサンドバッグを吊るし、10キロのダンベルで筋トレに励みました。腕力をつければ自分を守れると思ったからです。しかし、やがて悟りました。どんなに鍛えても、世界には自分より強い者がわんさかいるのです。私はある意味で「敗北宣言」をしました。自分の腕力では、本当の意味で自分を守り切ることはできないと知ったのです。それ以来、私は自分の腕力ではなく、聖霊の力に依り頼むようになりました。なぜなら、霊的な戦いにおいても、私たちは自分の力だけで「強い人(悪)」に勝つことはできないからです。イエス様は「もっと強い方」として私たちの人生に踏み込み、サタンを縛り上げ、私たちを解放してくださるのです。律法学者たちは、この聖霊の働きを「汚れた霊」と呼び、拒絶しました。これこそが「聖霊を冒涜する罪」であり、赦しを自ら拒む行為です。しかし私たちは違います。自分の弱さを認め、聖霊が自分に内在してくださるように、イエス様を信じて歩むのです。

結論
かつての私が腕力の限界を知ったように、私たちは自分の正しさや強さの限界を認めましょう。私たちが悪に勝てるのは、私たちが強いからではなく、イエス様が私たちの代わりに戦い、勝利してくださっているからです。受難節の歩みにおいて、自分の強さを誇るのではなく、「強い人を縛り上げる」主イエスの圧倒的な恵みと、聖霊の守りに信頼しましょう。

祈り
天の父なる神様。私たちは、自分の身を自分で守ろうと必死になり、力んで生きてしまう弱い者です。しかし、どれほど鍛えても、私たちは罪や悪の力、死への不安という「強い人」には勝てません。あなたは、「もっと強い方」として来てくださり、私たちを縛るものを断ち切ってくださいました。どうか今、私たちが自分の腕力ではなく、あなたの聖霊の力に拠り頼むことができますように。悪と戦い、私たちを自由にされた主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「もう、ひとりで抱えきれない」あなたへ。

安らぎたい。その願いは、新しく生きる種になる

これまでの人生への「行き場のない憤り」や、今の自分に対するやるせなさ。本当の安らぎを見つけたいと心が悲鳴を上げているのなら、そのままの姿で扉を叩いてください。ここは「立派な人」の場所ではなく、弱さを認め、重荷を分かち合いたいと願う人のための場所です。

私たちはここを「魂の野戦病院」と呼んでいます。傷ついたままの心で「食卓」に加わってください。初代の上村牧師は、どんな心の内にも決して汚されない尊い「神の子の種(人格)」が宿っていると信じたのです。礼拝は、その種を共に慈しみ、自分らしさを取り戻すための大切な時間です。

日曜日10時15分からの主日礼拝では、10時までのご着席をお勧めしています。15分間の静寂が、内なる「種」と対話し「神の愛」を受け取る豊かな準備となるからです。礼拝中の声や動きも、飾らない人間たちが「神の愛」の前に集う、ありのままの「いのち」の鼓動です。

服装はジーンズ等の普段着で、手ぶらでお気軽にお越しください。聖書等もお貸しします。献金は「神の愛」への感謝を表す自由なもので、強制ではありません。重荷を少しだけここに置いてみませんか。安心してお越しください。

※当教会は、統一協会(世界基督教統一神霊協会)、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)、モルモン教(末日聖徒イエスキリスト教会)とは一切関係ありません。

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