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説教題目

最初の弟子たち─圧倒的な呼びかけ

日付

2026-01-18

御言葉

マルコによる福音書1章14節~20節

はじめに:暗闇の中に響く声
本日の箇所は、洗礼者ヨハネが捕らえられたという、不穏で暗いニュースから始まります。正義を行う者が弾圧される、希望の見えない時代の幕開けです。しかし、主イエスはそのような時だからこそ、静かに引きこもるのではなく、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え始められました。「時は満ち、神の国は近づいた」。この宣言は、絶望的な現実に対する、神からの勝利の宣言です。そして主は、この大きな救いの業をたった一人で行うのではなく、人間を招き、共に歩むことを選ばれました。それが「最初の弟子たち」の召命です。

本論:日常への闖入(ちんにゅう)
イエス様が声をかけられたのは、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネでした。彼らは神殿で祈る宗教的なエリートではなく、ガリラヤ湖で網を打つ漁師たちでした。「網を打つ」-それは、生きるために必死で繰り返される、毎日の労働の姿です。明日の生活への不安、終わらない日常の繰り返し。イエス様は、そのような私たちの現実の生活、労働の現場のただ中に、突然入ってこられます。彼らは「すぐに網を捨てて従った」と記されています。私たちはこれを読み、「彼らはなんと決断力のある、信仰深い人たちだろう」と感心し、逆に自分には無理だと感じてしまうかもしれません。しかし、それは違います。これは彼らの意志が強かったのではありません。イエス様の「わたしについて来なさい」という言葉が、彼らの意志をも圧倒するほどの力を持っていたのです。福音とは、私たちが立派な決断をして神を選ぶことではありません。神の側から、生活に追われる私たちの日常に踏み込み、「あなたはわたしのものだ」と圧倒的な恵みで捕らえてくださることなのです。

結び:人間をとる漁師へ
イエス様は彼らに「人間をとる漁師にしよう」と言われました。彼らは網(生活の糧、安心の拠り所)を捨てましたが、それは破滅への道ではありませんでした。イエス様は、彼らの過去や経験を無にするのではなく、それらを全く新しい目的のために用いてくださいます。ただ生活のためだけに網を打つ人生から、神の愛によって人を生かす人生へ。今日、この礼拝において、主イエスは私たちの名前を呼んでおられます。私たちの弱さや迷いを知った上で、「わたしについて来なさい」と招いておられます。この圧倒的な恵みの呼びかけに身を委ね、新しい一歩を踏み出しましょう。

祈り
天の父なる神様。日々の生活の重荷や将来への不安の中に埋没している私たちを、あなたは決して見捨てず、その日常のただ中まで訪ねて来てくださることを感謝いたします。シモンやアンデレが、あなたの力強い呼びかけによって網を捨てて従ったように、私たちもまた、自分の力ではなく、あなたの恵みの力によって立ち上がることができますように。私たちが自分の弱さを見るのではなく、私たちを「人間をとる漁師」へと作り変えてくださるイエスの眼差しを信じて、この一週間を歩み出すことができますように。私たちを招き、捕らえて離さない主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「もう、ひとりで抱えきれない」あなたへ。

安らぎたい。その願いは、新しく生きる種になる

これまでの人生への「行き場のない憤り」や、今の自分に対するやるせなさ。本当の安らぎを見つけたいと心が悲鳴を上げているのなら、そのままの姿で扉を叩いてください。ここは「立派な人」の場所ではなく、弱さを認め、重荷を分かち合いたいと願う人のための場所です。

私たちはここを「魂の野戦病院」と呼んでいます。傷ついたままの心で「食卓」に加わってください。初代の上村牧師は、どんな心の内にも決して汚されない尊い「神の子の種(人格)」が宿っていると信じたのです。礼拝は、その種を共に慈しみ、自分らしさを取り戻すための大切な時間です。

日曜日10時15分からの主日礼拝では、10時までのご着席をお勧めしています。15分間の静寂が、内なる「種」と対話し「神の愛」を受け取る豊かな準備となるからです。礼拝中の声や動きも、飾らない人間たちが「神の愛」の前に集う、ありのままの「いのち」の鼓動です。

服装はジーンズ等の普段着で、手ぶらでお気軽にお越しください。聖書等もお貸しします。献金は「神の愛」への感謝を表す自由なもので、強制ではありません。重荷を少しだけここに置いてみませんか。安心してお越しください。

※当教会は、統一協会(世界基督教統一神霊協会)、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)、モルモン教(末日聖徒イエスキリスト教会)とは一切関係ありません。

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