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はじめに:唯一残された少年の記録
主イエスのご生涯の中で、誕生から公生涯(30歳頃)までの間で唯一記録されているのが、本日の「12歳の少年イエス」の姿です。この物語は、単なる「迷子騒動」でも、早熟な天才少年の逸話でもありません。ここには、神の子であるイエスが、私たち人間の現実(生活)とどのように関わろうとしておられるのか、その決定的な姿勢が示されています。新しい年、まだクリスマスの余韻が残るこの時に、少年イエスの姿を通して神の恵みを見つめましょう。
本論:父の家にいる少年、ナザレへ下る恵み
両親はイエスを見失い、三日もの間、苦悩の中にありました。ようやく神殿で見つけ出した時、少年イエスは悪びれることなくこう言います。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」(49節)。ここで少年イエスは、自分が「ヨセフの子」である以上に、「天の父の子」であることを宣言しています。神殿こそが本来いるべき場所であり、神との交わりこそが彼の本質です。しかし、両親はこの言葉の意味を「理解できなかった」(50節)とあります。私たちも同じです。神の御心や御計画は、私たちの常識や家族の情愛の枠には収まりきらず、しばしば私たちは神のなさることを理解できず、途方に暮れる弱さを持っています。神と人との間には、決定的な距離があるのです。
もしイエス様が「父の家(神殿)」に留まることだけを選ばれたなら、私たちとの距離は永遠に埋まらなかったでしょう。しかし、本日の箇所で最も心を打つのは、神の子である自覚を持った少年イエスが取られた、その後の行動です。「イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えられた」(51節)。彼は、栄光ある神殿に留まるのではなく、ご自分を理解できず、見失ってしまうような無力な両親と共に、田舎町ナザレへと「下って」行かれました。そして、大工の子としての平凡な日常、労働と生活のただ中へと身を沈め、両親に従順に仕えられたのです。ここには、クリスマスの出来事(受肉)の本質が続いています。受肉とは、神が人間の姿に変装したということではありません。神が、人間の「肉(弱さや限界)」を真にご自分のものとして引き受けられたということです。神の子が、人間の成長の過程、思春期の葛藤、日々の労働、そのすべてを「我が事」として引き受け、共に生きてくださる姿です。
結論:私たちのナザレにおいて
私たちは、「信仰生活」というと、神殿(教会や聖なる場所)に上り詰め、清く立派になることだと考えがちです。しかし、福音書が語る少年イエスは、逆に私たちのいる「ナザレ(日常)」へと下ってこられます。理解不足で、失敗し、神を見失うような私たちの現実。そのただ中に、主は来てくださいます。イエス様は、神殿の高みから私たちを見下ろすのではなく、私たちの生活の中で共に「背たけ」を伸ばし、私たちの弱さに寄り添いながら、神と人とに愛される道を切り開いてくださいます。この一年、私たちの日常がどのようなものであれ、そこには既に、ナザレに下ってこられた主イエスが共におられます。そのことを信頼し、歩み出しましょう。
祈り
天の父なる神様。主イエスの少年の頃の姿を通して、あなたの深い謙遜と愛を示されたことに感謝いたします。私たちは、あなたの御心を理解できず、不安に駆られる弱い者です。しかし、少年イエスは神殿に留まることをせず、私たちの住むナザレのような、ありふれた、時には重荷を負う日常へと下ってきてくださいました。どうか、私たちが自分の弱さや現実の生活に失望することなく、そこに共にいてくださる主を見出すことができますように。日々の歩みの中にこそ、あなたの恵みが満ちていることを信じて、新しい一年を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。