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説教題目

イエスの洗礼─罪人の列に並ぶ神

日付

2026-01-11

御言葉

マルコによる福音書1章9節〜11節

はじめに:行列の中の救い主
マルコによる福音書は、主イエスの公の活動の始まりを、華々しい奇跡ではなく、ある「行列」の場面から描き出します。それは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受ける人々の列です。そこには「ユダヤ全土の人が皆」集まり、罪を告白していました。驚くべきことに、罪のない神の子イエス様が、その群衆のただ中に身を置かれたのです。これは、かつてイザヤ書53章が「彼は罪人の一人に数えられた」(12節)と預言した姿そのものです。救い主は、高い所から手を差し伸べるのではなく、自らが「罪人の一人」として扱われ、その運命を背負い込むことで救いを成し遂げる方として、私たちの前に現れました。

本論:罪人の列に並び、天を開く
なぜイエス様は、ご自分には必要のない「罪人の水」に入られたのでしょうか。本来、ヨハネの授けていた洗礼は「悔い改めの洗礼」でした。人々は「私は汚れています」と認め、必死にそれを水で洗い流そうとしました。それは、過去の過ちを認め、神の前に自らの罪を告白する儀式と言えるでしょう。しかし、罪のないイエス様がその水に入り、私たちと並ばれた時、洗礼の意味は劇的に変わりました。主は、私たちの最も惨めな現実、罪と後悔の泥沼へと自ら降りてこられました。それは「あなただけを苦しませはしない。わたしもその罪を背負う」という、神の徹底的な連帯の表明でした。イエス様がこの古い「悔い改めの列」に加わられたことで、そこは単に汚れを落とすだけの場ではなく、「聖霊が降る」(10節)という、神の命そのものが注ぎ込まれる恵みの場へと変えられたのです。その時、天が「裂け」ました。私たちの罪によって堅く閉ざされていた神と人との隔てが、イエス様のこの連帯によってこじ開けられたのです。そして響いたのが「あなたはわたしの愛する子」という父なる神の声でした。この言葉は、本来イエス様に向けられたものですが、イエス様が私たちと一体となってくださった今、この声は泥の中にいる私たち一人一人にも響いています。私たちは、清く正しくなったから「愛する子」と呼ばれるのではありません。泥にまみれ、自分を愛せないような私たちと共に、イエス様がいてくださるゆえに、神は私たちを「愛する子」として受け入れてくださるのです。

結論:裂かれた天の下を歩む
私たちの頭上の天は、もはや閉じてはいません。主イエスによって裂かれ、そこから神の愛の息吹が注がれています。現実の生活において、再び罪の泥に足を取られ、うずくまる日があるかもしれません。しかし、主イエスはすでにその泥の中に足を踏み入れ、あなたの隣に立っておられます。「あなたはわたしの愛する子」。この恵みの声を聞きながら、新しい一週間へと歩み出しましょう。

祈り
天の父なる神様。私たちの罪や弱さのただ中に、主イエスを遣わしてくださり感謝いたします。主イエスは、高みから見下ろすのではなく、自らを「罪人の一人」に数え、私たちの重荷を背負うために、同じ水に浸かってくださいました。どうか今、主イエスを通して開かれた天からの声を、私たちが自分のこととして聞くことができますように。「あなたはわたしの愛する子」というあなたの無条件の愛(アガペー)に支えられ、自分自身の弱さを受け入れつつ、顔を上げて歩み出すことができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

~お祈り題目~ 

・信徒120人達成のため ・新教会堂建築のため
みなさま、お祈りをお願いします。

人と人が集まり、つながる教会づくり

電動マイクロモビリティポートを設置

・​わかまつ子ども食堂

※当教会は、統一協会(世界基督教統一神霊協会)、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)、モルモン教(末日聖徒イエスキリスト教会)とは一切関係ありません。

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