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説教題目

荒れ野の誘惑─苦難を共にする真の避けどころ

日付

2026-02-22

御言葉

詩編91篇1節〜13節

はじめに
 本日から、主イエスの十字架への歩みを覚える「受難節(レント)」に入ります。この受難節第1主日には、伝統的に福音書の「荒れ野の誘惑」の出来事が読まれますが、本日はあえて旧約聖書の詩編91編を開きました。なぜなら、荒れ野において悪魔が主イエスを誘惑した際、巧みに引用したのが、まさに今日の詩編の言葉だったからです。悪魔は「神の子なら、神殿から飛び降りてみろ。神は天使に命じて、あなたをその手にのせて守らせるはずだ(11-12節)」とそそのかしました。詩編91編は、神の絶対的な保護を歌った美しい詩です。しかし悪魔は、このみ言葉を「神が愛しているなら、あなたを一切の苦痛から魔法のように守るはずだ」という、神へのテストとして歪めて突きつけたのです。

本論
 この悪魔の誘惑は、そのまま私たちの内なる誘惑でもあります。私たちは病気や災害、人生の深い暗闇に直面するとき、「神様が本当に私を愛し、守ってくださるなら、なぜこんな苦しみに遭わせるのか」と疑い、魔法のように苦痛を取り除いてくれる「便利な神」を求めてしまいます。もしイエス様が神殿から飛び降り、天使に助けられて無傷であったなら、それは華々しい奇跡となり、人々はこぞってイエス様を崇めたでしょう。しかし、主はご自身の痛みを回避するその誘惑を退けられました。なぜなら、もし主がご自分の力を使って苦難を避けてしまえば、現実の痛みや悲しみ、死の恐怖という「荒れ野」の中で苦しむ私たち人間と、真に連帯することはできなくなるからです。主イエスは、み言葉を利用して苦しみから逃れる道ではなく、私たちと同じように飢え、渇き、傷つき、最終的には十字架の死という究極の苦難を味わい尽くす道を選ばれました。詩編91編が語る「神は避けどころ、砦(2節)」という言葉の真意は、「一切の不幸に遭わせない無菌室のようなバリア」のことではありません。私たちが自分の力ではどうすることもできない現実の苦難、その最も深い絶望のただ中に、主ご自身が降りてきて、共にその痛みを担ってくださる。その「苦しみを共にする」としてのキリストご自身こそが、私たちの真の「避けどころ」(砦)なのです。

結論
 イースター(復活祭)へと向かうこの受難節の歩みの中で、私たちは、ご自身の身を守ることを捨てて、私たちのために十字架への道を歩み抜かれた主の愛を仰ぎ見ます。私たちの人生の荒れ野が、祈ってもすぐに緑の野に変わらなくとも、恐れることはありません。すべての苦難を自ら味わい、やがて死に打ち勝たれる主が、今、あなたと共に荒れ野を歩んでおられます。この真の避けどころである主を信頼し、共にイースターの希望へと向かって歩み出しましょう。

祈り
 天の父なる神様。今日から始まる受難節の歩みにおいて、主イエスが私たちのために荒れ野の誘惑に打ち勝ち、十字架への道を歩み始めてくださったことを感謝いたします。私たちは苦難の中で、すぐに魔法のような解決を求め、あなたの愛を疑ってしまう弱い者です。しかしあなたは、私たちを苦しみから遠ざけるのではなく、自ら十字架の苦しみを引き受け、私たちの痛みの中に入り込んで「避けどころ」となってくださいました。どうか、人生の荒れ野を歩む私たちが、自分の弱さのただ中で、共にいてくださる主を見上げることができますように。十字架の先にあるイースターの光と希望を胸に、今日からの新しい一週間を歩ませてください。私たちの真の避けどころである、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

~お祈り題目~ 

・信徒120人達成のため ・新教会堂建築のため
みなさま、お祈りをお願いします。

人と人が集まり、つながる教会づくり

電動マイクロモビリティポートを設置

・​わかまつ子ども食堂

※当教会は、統一協会(世界基督教統一神霊協会)、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)、モルモン教(末日聖徒イエスキリスト教会)とは一切関係ありません。

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