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使徒パウロは「あなたの内にある聖霊の賜物を軽んじてはいけません」(Ⅰテモ4・14)、「あなたの内に与えられた神の賜物を、再び燃え立たせなさい」(Ⅱテモ1・6)と述べ、神が与えてくださったものは「臆病の霊でなく、力と愛と慎みとの霊です」(Ⅱテモ1・7)と教えています。神の賜物には、「霊を見分ける力」もあります(Ⅰコリ12・10)。ではこれはどういったものであるのか。
1 見分けること
この霊を「見分ける」と訳された原語は、Ⅰコリ14・29でも見られ、そこでは「吟味する」と訳されています。この「霊」とは複数ですから「さまざまな霊を見分ける働き」「さんざまな霊を吟味する」働きということになります。
ペトロとヨハネが、「美しの門」に座っていた生まれつき足の不自由な男を見て、施しを求めていたこの人にいやしをあたえたのは、実は健康になることを求めているのだという彼の心を見抜いてそうしたのではなかったのでしょうか(使3・6)。
「霊を知る」ことも霊の見分けであります。「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい」(Ⅰヨハ4・2)。確かにこの「霊を見分ける力」は、ある種の直感の世界に属する能力です。これは悪霊を見つけることではなく、人の心の状態を知って、正しく判断し、適切に対応する働きと見るべきです。
2 冷静な思いの霊
Ⅱテモ2・7に「力と愛と慎みの霊」とありますが、この「慎みの霊」もまた神の賜物を燃え立たせなさいと前節にある言葉を受けて用いられています。「力」はわたしたちの意志に、「愛」はわたしたちの感情に、そして「慎みの霊」はわたしたちの思いに言及しています。これは強い意志、愛する感情(憐れみを含む)、そして冷静な思いを持つことが、強い信仰を持つことと関係していることを示しています。強い信仰は、「山をも動かす信仰」をもたらし、不可能な事でも可能とする全能の神への信仰に結びついています。
それは、行いの伴う信仰であり、神への絶対的服従する堅い意志と愛し抜く、諦めない思いと冷静な思いで満たされる聖霊の賜物だというのです。聖霊に満たされるというのは、冷静に「事実」(現実)と「信仰」(可能性)の識別ができる心の状態です。悲しい心の状態にあっても、みことばに信頼し、励まされ、このみことば通りに「成る」ことを期待して待つ姿勢は「信仰」です。また待つ事の大事さに「気づく」のです。これは不思議な心の作用です。それは人の心が読める、その場の空気が読める力でもあります。
3 聖霊によって与えられた情報
人の心が読めるようになり、生まれつきの性質・感受性とは別の聖霊によって与えられる情報で人の心や環境の状態が分かり、健全な対応をすることが出来るようになるには「知識の言葉」という賜物を持つのに似ています。これは、人間の努力で獲得できる知識ではなく、人間の努力では知り得ないことを、聖霊が教えてくださることなのです。
預言者サムエルは、サウルが来る前に、主からその来訪を知らされていたと書かれています(サム上9・15、16)。それは「主が、前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた」(15)と書いてあります。
預言者エリシャもまたアラム王が出陣するたびにその様子を主によって教えられてその情報をイスラエルの王に伝えたので、敵に対応できました。アラム王は自分の陣営にてっきりスパイがいると思って怒りましたが、家来は預言者エリシャが神から情報を得ているのだと告げました(列下6・8~12)。
このように予見的な映像、あるいが特別な知識として一般の方法では知ることのできない情報を、神が与える、これが聖霊により知識の賜物です。
またアナニヤとサッピラは献金について「聖霊を欺いて」行動した時、ペトロはその事実を見抜いていました(使5・1~12)
。「霊を識別する、吟味する賜物」は、祈りの中で与えられることが多いものです。いやしについての指示も祈りの中で映像的に示されたり、その原因が分かったりするよう主が教えてくださるのです。偏狭な先入観に縛られるのはやめて、聖書は指示している主の約束を期待するのです。
まず祈ることです。「癌だと言われました。いやしのためにお祈りください」とある人がやって来ました。いつものように祈り始めました。ところが何の反応もありません。おかしいなと思って、「主よ、この方の心の中を示してください」と祈りました。すると、私の心に浮かんできたのは、その人の「恨み」の心、「傲慢」な心でした。すぐにそれを指摘しました。癌のことは忘れてしまいました。それよりも重大な高慢な心からの解放を祈ることでした。その後何も言ってきませんが、癌が悪化したとか、亡くなったということは聞かず元気にしているようでした。いやされ、解放されたのでしょう。心の状態を把握して、それからの解放を祈るとき、おのずから癌もいやされるのでしょう。
「霊」という表現を見ると、人はすぐ幽霊とか悪霊とかを考えがちですが、聖書の中で使われている「霊」という言葉はもっと広範囲のことを含む言葉ですのでこのことをわきまえて読むことです。「元気づく」「気」に近い言葉でもあります。「合気道」などでもこの霊の識別を重視しているのは面白いことです。