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説教題目

聖霊の賜物の現われの領域

日付

2023-10-15

御言葉

Ⅰコリ12章27~31節

ひとりの人の生活範囲は限られていても、わたしたちはさまざまなとかかわっている。その人はあちらこちらに散りなり、地理的にも大きく広がっている。生活を通して結んだ実が何世代も受け継がれるなら、人の広がりは限りがない。
1 キリストのからだ
 教会を表すために用いられていたのが「からだ」とい概念である。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(Ⅰコリ12・27)。キリストを信じることによって、新しい命が与えられ、私たちの内には聖霊が宿り、御霊の賜物を運んでこられる。ひとりひとりに賜物が与えられる。しかもその賜物はそれを受けた人たちのためではなく、からだのためにある。「霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(Ⅰコリ12・7)とあるとおりである。
 Ⅰコリ12章4節以降には9つの聖霊の賜物が表記されている。すなわち、知恵、知識、信仰、いやし、奇蹟、預言、霊の識別、異言、異言の解釈であり、これらをもってキリストの体である神の家族、それを取り巻く人々に仕えるために用いるべきだという。その結果、「からだ全体は、あらゆる節々が補い合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いてからだを成長させ、・・・愛によって造り上がられてゆくのです」(エフェ4・16)。宣教においては、イエスを信じるすべての者に役割がある。賜物が与えられたのは、からだの内部のためと思いがちだが、それはもっと広い働きのためにあるといえる。それは神の民の仕事はさらに広いからだ。私たちはキリストのからだであり、キリストの手となり足となって、この世界を動き回る。これは私たちがインサイダーとなることを想定しているからである。
2 インサイダーとなること
 世界中のあちこちで社会の一員(インサイダー)として配置され、その人の人脈を通して、神の計画・目的を進めていくことを「使命」といえる。この使命、神の目的とまったく関係のないことに費やす一生こそ、不毛な人生といえる。インサイダーとして生きていないなら、使命感もなく、いかに活動的であっても荒涼とした一生でしかない。世界に目を向けると次から次へと悲惨な事ばかりである。イスラエルでは何千人という人が戦争の犠牲となり、アフガニスタンでは大きな地震で数千人が亡くなったとニュースは伝えている。この苦しみと混乱の世界を見ると神の計画・目的がどこにあるのかと思えて来る。にもかかわらず神は目的を持って導いているというのが聖書の主張なのである。
 私たちに御霊の賜物が与えられたのは、インサイダーとして働くことだ。確かにイエスに従う者は、すべてを捨てて追従することが勧められている(マコ1・17)。かくしてイエスの十二弟子は「人間を捕る漁師」となって、仕事を捨て、イエスに従った。しかし残りの弟子たちはどうだろうか。彼らへのイエスの指示は正反対だった。悪霊につかれた人をいやした後、イエスと一緒に行くのを許さず、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(マコ5・19)と言われた。このように一般的には、イエスに従いたいなら、自分の属する地域社会に戻るように召されている。これがインサイダーとしての位置づけなのである。神の国の良い種は、この世の悪の中にある悪しき種と混ざり合い、そこで神の国にふさわしく生きることが命じられているのである。
 時には、この生きかたはスキャンダルをもたらすとも言える。世間から見向きもされない人々の友となったりして悪評判がたつこともある。そんな人を十二弟子のひとりにしたことで多くの人はあきれ返ったことだろう。多くの人はそのような人には近づかない安全な選択をする。つき合っている人によって人格が判断され、損失をこうむるからである。あの連中と付き合うのは、通じるものがあるに違いない、そう考えるのが妥当な結論だからである。多くの人はアウトサイダー(部外者)となろうとする。しかし、それでは少数の人に福音を伝えられても多くに人には伝えられるものではない。福音は、罪や悪習や訴訟問題や犯罪的行為に対して一瞬に消し去る魔法の杖でもない。そこで御霊の賜物をもって解決へと導いたのだ。私たちの人間関係には良い関係も、悪い関係もあるのだが、パウロは御霊の賜物があるゆえに不平や理屈を言わずに神の国の市民として「命の言葉」をしっかりと握りしめて生きるように勧めている(フィ2・16)。しかし、聖書にはこれと正反対の教えもないわけではない。新しく信じた者は、古い友達と分離せよ(Ⅱコリ6・17)と教えられ葛藤する。これをどう解決すべきか。
3 調和を保つこと
 たいていの場合、間違った教えというものは、一部のみを真実だと強調する。パウロは「召されたときの、身分のまま、神の前にとどまっていなさい」(Ⅰコリ7・24)と教えたが、その同じ人が古い生活を捨てるように教えている。この矛盾をどう理解すべきか。パウロは原則を教えているのであって、規則を定めているのではない。自分の置かれている場所をあせって変える必要はないと言っているにすぎない。無理に線引きをして他人に押し付けるべきではない。あくまでも自分のためなのである。要は、心が何によって占められているかにかかっている。聖霊の賜物が与えられると言うことは、その限りある領域を拡大することにある。神の国の市民として生きることは、聖霊なる神の賜物を働かせることになる。キリストへの熱い信仰をもって栄光と誉れと賛美と勢い、宝をささげるとき調和ある生活が現れて来るのである。インサイダーが果たす役割を過小評価してはならないのである。

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