top of page

説教題目

神の国の革命的愛の思想

日付

2023-10-01

御言葉

マタイ25・31~40

 イエスは弟子たちにむかって「天地創造の時からおまえたちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と言われた(マタ25・34)。聖書はその国を「神の国」と呼んでいる。その神の国の民として弟子たちはふさわしく生活するようにと命じられたのである。ではどういう生き方なのか。
1 神の国とは  創世記から黙示録にいたるまで聖書全体をとおして、神の国のテーマは一貫して流れている。創造者である神が、自然界とその中の被造物を支配しているが、それを人間の手にゆだねるところから始まる。そして今日にいたるまで人はその責任を負っている。
 紀元前六百年頃、バビロン帝国をおさめた異教徒の王ネブカデネザルは、神の国の存在を認識し、こう告げた。「わたしはいと高き神がわたしになさったしるしと不思議な御業を知らせる。この神のしるしは、いかに偉大である、不思議な御業は、いかに力あることか。その御国は永遠の御国であり、支配は代々に及ぶ。」
(ダニ3・32、33)「その支配は永遠に続き、その国は代々に及ぶ。すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて、何をするのかと言いうる者はいない。」(ダニ4・31b、32)。ネブカドネザルが、神の国の性格を知ったように、イエスの教えの中心テーマもまた神の国であった。イエスが宣教を始めた最初の一言が「悔改めよ。天の国は近づいた」であった(マタ4・17)。イエスはマタイ福音書で、「天国」「神の国」と繰り返し約五十回ほど言及し、他の福音書の著者もまたそれにならっている。
 ではどこに神の国はあるのか。イエスは「神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17・21)と言われた。神の国は、組織や団体、世界伝道の戦略の中にあるのではなく、特定の人の内にあるという。人がそのように生きているのかを見ることをとおして神の国が見えて来るのである。しかし、イエスの弟子たちもそれを見逃した。目の前にあるイスラエルの体制、すなわち社会的混乱を解決してくれる政治を求めていたので、神の国に気づかなかった。間違ったものを求めているキリスト者は今でも多くいる。
2 いかに神の国に気づくか  マタイ25章でのイエスの譬えばなしで、神の国を求めるときに何に目をとめるべきかを理解するのに助けとなる。その譬えでは、救い主が王座に座り、その前にすべての国の民が集められる。二つのグループにわけ、片方のグループに用意されている神の国を受け継ぎ、もう一方のグループは、裁きへと送られる。なぜその違いが生じるのかをイエスは説明している。
 招かれた人たちは、目の前にいる救い主が牢に入れられたり、欠乏したり、苦しんだりしたことを思い出さず、何をしたかの心あたりもない。そこでイエスは「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのである」(40)という。つまり、神の国にふさわしい行動をしているのを見るなら、そこに神の国を見るというのである。かくしてローマ帝国の片隅から起こった一握りのメシア運動が、またたく間のうちに従来の異教信仰を押しのけて、主要な信仰となったのは、「神が愛しておられるという信仰」からもたらされたといえる。キリスト者は互いに愛し合い、憐れみの心をもって人々に接した。これが神を喜ばせたのである。
3 愛し合うことの不思議さ  これを実践することは当時のローマ帝国にあって革命的なことであったのである。ローマ人たちは学識豊かであったが、彼らの神々が人間関係に関心を抱くとは想像さえしなかった。当時の哲学者たちは「憐れみと同情は病的な感情で、理性的な人間はすべて、そのような人格的欠陥を持ってはならない」と考えた。なぜなら労せずして憐れみや援助や自由を受けるのは、公正でないと考えたからだ(ロドニー・スターク『キリスト教の勃興』)。
 この思想は、現代でも同感する人は少なくない。なまけていたために貧しくなった人をいたわるのは公正ではないと「社会福祉」の考えに否定的な人がいる。ましてや神がそのような人を愛すると夢にも考えなかった。それどころかローマ世界は、残虐行為が横行し、暴力的な死を愛好する風潮があり、それを楽しんだ。奴隷を猛獣と戦わせ、楽しんだ。ところが民族の枠を超えて、愛し合うことを教えたキリスト者がそれを実践した結果、ローマ世界を再生させる文化的土台を提供した。
キリスト者は新しく回心した人々に、人道的であるように教えた。それは心の内側に住む神の支配にしたがって生きるようにと教えたのである。つまり神の国の統治、生き方が彼らの心を支配したことは、当時として革命的な愛の思想であったのである。神の支配にしたがい神の栄光を表わすのは、大きな出来事ではなく、小さな突発的な出来事においてである。そこに本来の人間性が現れる。王国の民としての性質にしたがって行動するのは、恵みとまことを現すことになる。人間の基準からすれば、神の国の生きかたは弱々しく、取るに足らない価値のように見える。しかし、小さなか細い声の中に、目立たない行為の中に神の国はある。この永遠なものが、現実に今ここに侵入していることに気づいてもらうために、私たちは人々に仕えていくのである。

bottom of page