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教会は福音を告げ知らせるためにこの世に遣わされている。キリスト教国家でない地域では教会に関係のない人が大半で、宣教のスタイルも変わって来る。キリスト者でない人にどう関心を払うかも異なる。
1 教会の働き キリストの体である教会は一つであるというのは真理であり、その体のそれぞれの部分が互いに協力して一つの体の働きを支えるわけで、その働きは多様である。よって、教会同士が分裂しているように見えても心配する必要はない。むしろ多様性があるから、自分の好みの教会を選ぶことができるが、しっくりしない面もないわけではない。教会に集う人の数が気になるや、教会をビジネスの世界のマーケットのように競争し合うようになり、他の教会を蹴落とすような行為に出る場合もあるからだ。殊に非キリスト教世界では信徒数も少ないくシェアを奪い合う悪魔の罠に陥ってしまいがちだ。「互いに配慮し合う」(Ⅰコリ12・25)なら競争は生まれないはずだが、日本のような非キリスト教国での宣教でこの競争意識が前面に出て来ると悪魔の罠に陥りやすい。早天祈祷会にしても教会ごとに持ちにくい日本では、いくつかの地域の教会の信徒たちが協力してもつ「朝祷会」がある。これはインサイダー宣教の良い流れであるが、時には教会の側からは不満の原因ともなる。教会側では、「あなたはわたしたちの教会員なのだから、働きの実をわたしたちの教会に連れてきて欲しい」と願うからだ。この流れに逆らうと教会の側からは問題視される。しかも教派の異なる信徒との交わりは、教えの混乱を招く原因とされる。超教派の旗の下に全国朝祷会運動はカトリック、プロテスタント教会の信徒が一緒に集会を持ち、祈り、賛美し、みことばの学びをするので、いたわり合わなければ存続はできないし、教会側の協力を得にくい。多くの場合、レストラン、喫茶店、会議室を使用して運営にあたっている。支援教会であっても直接の見返りは期待できないし、新しい実が加わる保証は一切ない。むしろ自分の教会信徒が別の地域の教会につながってしまうことを怖れる教会もないわけではない。このような朝祷会運動が日本で維持できているのは他国にはみられない特性である。この運動は、神の国の視点から見ることが助けになるであろう。
2 神の国 イエスの教えは「神の国の福音」と呼ばれた(ルカ4・43)。イエスは「この福音を告げ知らせるために遣わされた」。それはパウロのメッセージでもあった。パウロはローマで借りた家に丸二年間住んで「自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、イエス・キリストについて教え続けた」(使徒28・31)。神の国は、教会ではないし、神による支配であり、その国の王はイエス・キリストであり、教会(信徒)はその国の市民にしか過ぎない。いつの日か信徒はこの国を受け継ぐ。福音を伝え、人々がそれに応答するとき、神の国が人々の命に侵入する。信じた人々は神の国の市民権が与えられ、キリストの体の一員となる。イエス・キリストがメッセージの中心であれば、働きの実がどの地域教会に落ちようと問題はない。ある人は自分たちの教会に来るかもしれないし、別の教会に行くかもしれない。
3 コーチの必要 このように友好的で、理解ある交わりは組織化する必要もなく、同じ目標を追い求めていく。ところが、誤解を受け、批判されることもある。キリスト者でない友と家庭やレストランで交わりを持ち、教会に積極的に誘わないことが霊的に後退しているのではないかとみられるからだ。信仰の正統性も疑問視される。そこでどうしてもコーチが必要となる。
このような働きのために、パウロは、神は教会に賜物を与えたと告げた。「使徒、預言者、教師の賜物、知恵、知識、信仰、奇蹟、いやし、預言、霊を見分ける賜物、援助、管理、異言、異言を解釈するの賜物」の14の賜物だ(1コリ12・8~10、エフェ4・11)。こうしてコーチがこれらの賜物を生かして奉仕と指導を組み合わせた結果、しっかり組み合わされ、結び合わされて、その力量にふさわしく働く力により、成長して、愛の内に成長していく。これが日本の宣教で必要な働きである。コーチは、取り組んでいる全体を良く知り、整え、励ますことができ、良いところを認め、足りないところを修正する賜物を与えられている。有能なコーチは、インサイダーとしての信徒の働きを理解する能力を持っている。こういう使徒的賜物、預言的賜物を持つ人は少ないが、現代こそ求められている時代はない。それはこれまで慣れ親しんできた牧師や教会指導者とは違ったタイプの霊的指導者だ。彼らは、みことばと讃美の歌を歌い(詩106・12)、災いがいかに重なっても、主がそのすべてから救い出し、守ることを信じ主に従う人(詩34・20)を創り出す。彼らは「主が金銀を持たせ(イスラエルの)民を導き出された。どの部族にも落伍者はひとりもなかった」(詩105・32)ことを信じる人である。主の勝利は、兵の数でも馬がもたらすのでもなく、主の寄り頼む人に救いと命を得させる(詩33・3)と信じる人。コーチは、このようなインサイダーの歩みを整える。多くの場合、教会人は、決断に導くことだけを伝道における成功とみなす。回心に至らなければ話す価値がないと考える。しかし、種蒔きという小さな行為が神にとって大きな価値があるのだ。自分が関係する教会の実りだけがすべてではない。その種蒔きから数十年たって、別の地域でその蒔かれた種が実を結ぶ。これはインサイダーその人にも分からないことだが、神は高くそれを評価する。インサイダーの働きは、宣教師の働きと同じように前向きに支援する必要がある。朝祷会の世話役などは、そのインサイダーの働きそのものである。今日の教会が行っている宣教スタイルと、インサイダーの働きの違いの一つは、働きの現場の違いである。多くの信徒は教会の施設に親しんできた。しかしインサイダーは、人間関係の成立している生活の現場を中心に活動を展開していく。多くの宣教師が教会施設を作ることが伝道と考えがちだが、インサイダーは、施設の方が宣教を支えると考える。よって教会施設を優先するより、生活の現場を重視し、地域の公民館や地域センターやレストランを用いる。彼らの働きは、あまり目立たたず、日常の風景に溶け込んでいる。決められた場所でもなく、決められた時間でもなく集う。イスラム教、ヒンズー教、仏教、神道が主要な地域では、目立たないことがどれだけ神の国の宣教に有利に働くかを想像できよう。数の多さ、集会の大きさは成功どうかを測る物差しになっている場合が多いが、もはやそのような時代ではない。神の国ではなく自分たちの王国を求め誘惑に屈しないように、パラダイムを変換させて今まで通ったことのない道を聖霊に導かれて歩むことだ。時期が来たら実を結ぶことを信じて、神の国の宣教に励むものでありたい。