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説教題目

犠牲を献げる生活

日付

2023-07-23

御言葉

マタ22・39  Ⅱコリ12・15

実を結ぶには代価を支払わなければならない。イエスは御自分の生涯を通して身を結ばれたのは、十字架の死という犠牲を払われたからだ。

1 矛盾 イエスはこう言われた、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハ12・24)。これは御自身を指して言われたのだ。「自分は死ぬでしょう。死ぬことによって数えきれない種に命を与えます」。それから話を続け、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者人は、それを保って永遠の命に至る」(同25)。何という矛盾であろうか。イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」(マタ22・39)と教えられたばかりだ。一転して自分の命を憎むように告げるとは、どういうことか。矛盾してはいまいか。いったいどう理解すればいいのか。
 おそらく自分のことに夢中になり、自己中心となると、人は自滅するというのであろう。この命を「憎む」というのは、自己否定、自分を追い詰めるというより、進んで人々に関心を払うことを意味するのではないか。パウロは言ったようにだ。「わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう」(Ⅱコリ12・15)。このように、わたしたちの生活には十字架がなくてはならない。
 これは重要な逆説の一つだ。自分の命を自分のものとしたものはそれを失い、自分の命を放棄した者はそれを得る。どうしたらそうなるのか。周囲の人を助けることに関心を持ち、自分の命にしがみつくのをやめれば、生きるとはどういうものかがわかるようになる。
2 家庭のために代価を支払う
 神がアブラハムを召されたとき、こう言われた。「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主にしたがって正義を行うように命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」(創18・19)。
 アブラハムへの神の召しがそうだったように、まず家族の伝道から始まる。そこに神が特別の選んでくれた人々がいるからである。したがってわたしたちは家族に対して特別の責任を負っている。妻に対しても「夫は自分の体のように妻を愛さなければなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです」(エフェ5・28)と教えている。神は子どもたちの教育という責任を両親に与えられたので、夫婦は協力してこの責任を果たさねばならないのである。
 日本をイエスの国とする、国組を主の弟子化するのあたって大切なアプローチは、霊的な次世代への教育である。不服従のゆえに荒野をさまよった後、イスラエルの民が約束の地に入る備えをしていた時に、神はモーセにこう語った。「イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。・・わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも、道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」(申6・3~7)。このように神は休むことなく神の言葉を守るようにと教えた。それにはまず聖書に親しみを感じさせなければならないし、神のことばが本当だと教えねばならないであろう。神のことばに従えばよくなるが、自分流のやり方では不幸を招くということだ。友達と喧嘩して帰って来た息子に「もしあんたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(ロマ12・20)と語ってやる。「試してごらん」。実行すると寡民知恵を体験し、神の信頼するようになる。そうなれば、神を愛するようになる。この原則を徹底的に教え込むことだ。子どもが大きくなり、仕事の実績を上げ、有名になってもいつか挫折する時がある。その時、このみことばへの信頼の原則を持っていれば立ち上がることができるものだ。家庭のためにまず犠牲を払って宣教することは、次の宣教への土台を築くことになる。こうして、隣人へと福音の目セージは広がっていく。
3 関係 
 神を愛し、人を愛する、土を愛する。これは人生が関係であることを教える言葉である。人生の源は神との関係である。そこから始まり、出会うすべての人々との関係へと発展し、被造物である自然界への関係へと向かう。これらの関係に向かって、忙しい生活の中で、もう一つの視点をもって生活をする、それは「主の宣教命令」の視点をもって生活をすることだ。すなわちキリストがそうされたように共に苦しみ、キリストの勝利にあずかる生活である。良き種は、嘆き、憂いの土地に蒔かれても、そこで発芽し、慰め、賛美の実を結ぶ。こうして神の国は成長し発展していく。少なく、弱いわたしたちが支払う代価は、やがて受取る見返りから見れば、誠に小さな犠牲にしか過ぎないことに気づかされるものだ。

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