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説教題目

御霊による信仰

日付

2023-08-20

御言葉

Ⅰコリ12章7~9節

Ⅰコリ12章では、聖霊の賜物に九つ挙げられているが、その一つが「信仰」である。これは神に対する態度であって、これがないと神に喜ばれないのであり、何事も信仰をもってなされるべきであると勧められている(ヘブ11・6)。ではここでいう「御霊による信仰」とはどのようなものか。
1 聖霊の賜物としての信仰  確かにクリスチャン生活は信仰によって始まる。信じることなしに、神との生活も行動も存在しないのは言うまでもない。それゆえに「信仰を持つ」ことがクリスチャンの前提条件であるが、ここで言う聖霊の賜物としての信仰は、一般に誰もが持つ「信仰」とは何か違うものを示唆しているように思える。イエスへの信仰は確かに大きな業をなし(ヨハ14・12)、永遠の命を持ち(同6・47)、生ける水の川が流れ出るようになる(同7・38)。しかも行いのない信仰はむなしいと、信仰と行為との関係まで言及している(ヤコ2・26)。これらは信仰生活におけるあり方の表現であって、特別な働きへの言及ではない。
 しかし「御霊による信仰」は、「ある人の特別に与えられる働き」として示唆しているように思われる。Ⅰコリ13・2では「山を動かすほどの信仰」が、異言、預言、知識、奥義などの御霊の働き・賜物の一つとして扱われているので、この種の信仰は、聖霊によって、ある人に、ある時、ある目的のために与えられる特別のもののように見られるのである。このように考えてもう一度「ヘブライ人への手紙」第11章を読んでみると、信仰によってノアは箱船を建設し、アブラハムは息子イサクを献上し、モーセはエジプトを脱出し、エリコの城壁を七日間周り、崩れ落とした「行動に移された信仰」であったことが、まさにこの種の信仰なのであると言うのだ。つまりこのようにせよとの神の語りかけ以外の何ものでもないのである。それは知的に、理性的の「非常識なことだ」と分かっていても、これは神の約束だから信頼して良いのだ、神の言葉だから従わねばならないと思える内容なのだ。それゆえに信じることができ、行動することができる、神の臨在の中にある決断なのである。
 非常識だと分かっていても、神の語りかけだと認識するとき「その言葉に従って、一歩踏み出す」というのは冒険であり、明らかに御霊の導きによる賜物なのだ。これは単なる思い込み、信念とは違う「神の言葉に立脚した信仰行動」の結果なのである。これは結果によって判別できる。
2 信仰による行動  モーセは信仰によって、イスラエルの民を導き、「陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました」(ヘブ11・29)・これは信仰による行動であったのである。しかしエジプト人たちは「同じように渡ろうと」したのだが「信仰による行動」でなかった。同じ海が、ある人々には陸地のようになり、ある人には呑み込む海となったのだ。こらは「信仰による行動」と「そうでない信仰」との対比させている実例であろう。
 アブラハムの行動にも、信仰によるものと、そうでないものとが見られる。アブラハムがエジプトに入ろうとした時、妻のサライが美しかったので、エジプト人に、もし妻だと告げたなら、自分を殺して奪うに違いないので、「どうか自分の妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのお陰で殺されずにすむ」と願ったこと(創12・11~13)、子どもを欲したアブラハムは、妻サライの言葉を聞き入れてエジプト人の女奴隷ハガイとの間に子どもをもったことは、どう見ても信仰による行動ではなかった。御霊の導きによる行動とは思えない。
 ヨシュアの異邦人ギブオン人への対応もまた同じである(ヨシュ9・1~27)。彼らはヨシュアの率いるイスラエルに対抗して戦おうとした時、賢く立ち振る舞った。彼らは遠い国から旅してきたような恰好をし、ひらにび、かび臭くなったパンとひびの入ったぶどう酒の革袋を携えて「わたしたちは友好条約を結ぶためにやってきました」と欺いたのである。ヨシュアもほかの指導者もこの言葉を信じて神も指示を仰ぐこともせずに、友好条約を結んでしまったのだが、それから三日後に、事実が明らかになった。かれらは近くの者であったのだ。聖書はこう告げている、「ついにその(使者の)一行を信用し、神の指示を仰ぐことをしなかった」(同9・14)。こうしてイスラエルの民は己が知恵に信頼して、神の命じられたことを聞き従わず、己が知恵に信頼して、祈らなかったために失敗したのであった。
 同じ一人の人の生涯おいてさえ、ある行動は信仰により、ある行動は人間的な思いによるものであるので、この「賜物としての信仰」は、パウロが表現を変えて説明しているように「御霊の現われ」(Ⅰコリ12・7)なのである。よって、それは常に持っているものではなく、ある時に、ある目的のために、御霊が与えるものなのである。確かに、自分の考え、感情、願い、価値判断、義務感、直感などが様々な心の動きに影響を与え行動を決定するには違いない。しかし、それらの行動決定の要因に加えて、「神からの語りかけ」「主の言葉」を受ける姿勢を保っている時に主は働かれるのである。この点で「主の御旨に生きる」という態度を持つことは大切なことだ。その時に、人は聖霊に働きかけられやすい状態を保てるからだ。これが委ねた人生であり、献げた生活となる。そのとき、行動化された信仰とはどのようなものかが分かるであろう。

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