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『Ⅰコリントの信徒への手紙』第12章にある聖霊の賜物についてのリストを見ると、「異言」(ギリシャ語のグローサ)が8番目に、「異言の解き明かし」については9番目に列挙されている。最後の項目なので重要度が違うのかと思うわけではないがそれについて議論があるのも事実である。
1 異言とは これがどのようなものかは使徒2章1~4節に記録されてある。「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」。人々が、聖霊の主導の下に話させたのであって、自分が話したいことを話したのではない。この点がはっきりしていれば異言体験は、神に人の言語領域を支配させることで、自己主張ではないことに気づく。話したいから話すのではない。
意志によって話すことが出来なくなった出来事を聖書は「バベルの塔」を建てた時に、神の計画に反対した故に、神は言語の領域に介入し言葉を乱し一致を失わせ、言葉が通じなくなったとある(創11章6~9節)。それは、一致が悪いのではなく、サタンに意志に従う一致が問題なのだ。神は聖書の言葉による一致を啓示しているが、サタンはそれ以外の事柄での一致を求め、聖書に戻り、主の従い、教えられた通りに神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することの実践を重視しない。そこで神の介入による言語領域の混乱の回復がペンテコステの日にもたらされた。言語が分散したのは、神の計画に反対した結果の介入であった。それゆえに、みことばによる一致を促進するために機能としての「異言」を評価しなければならないであろう。聖霊は、人の言語中枢を刺激し聞いたこともない、話している本人さえもわからない言語を語る。わかることは喜びにあふれる主への賛美の感覚であり、聖霊の満たしの経験であろう。
ところがこの異言を話すことが、教会の秩序を妨げ、牧師によるみことばの解き明かしを否定する者まで現れた。神からの直接の指示で語り、行動するというのだから教会の秩序が保たれない。そこで異言を語ることが一致をもたらすどころか、混乱を招いた歴史が起こった。そこでパウロが、預言を熱心に求め、異言を禁じず、適切に実行しなさいと命じた(Ⅰコリ14・39~40)にもかかわらず、異言を禁止したり異言で祈る事すら禁ずる人すら出て来たのである。勝手気ままに語られると統制が利かなくなり、教会内の混乱を招くのは言うまでもないのでもっともな話しだが、異言そのものが聖書の教えに違反するものではないし、福音信仰の踏み絵にしてはならないことは言うまでもない。
2 御霊の支配に生きる人 聖霊の統治の中に生き、聖霊の実を豊かに結んでいる人を聖霊に満たされている人であっても、異言を語らない人もいる。確かに異言を語り、熱心に信仰生活をしている人であってもその人の生活を見ると、その異言を語ることが豊かな人格形成に結びついているとは思えない人もいる。
パウロは、異言が自分の徳を高めるものでなければならないし、それにもまして教会の徳を高め預言の賜物を評価している(Ⅰコリ14・5)。つまり、預言や異言は、徳を高め、自分や教会を祝福するものなのだという理解に立っている。
それゆえにパウロは異言で祈ると共に、御霊にある知識をもって「理性でも祈る」こと推奨する(Ⅰコリ14・15)。聖霊の臨在の中での祈りと賛美と理性の言葉を語ることは豊かな信仰生活をもたらすのである。何を祈るべきかもわからない人もいる。どう祈っていいのかすらわからない人もいる。そのとき異言の祈りを通して、御霊が弱いわたしたちを助け、言語にならないうめきをもって執り成してくれる、そればかりか万事が益となるように共に働いてくれることを確信させてくれるのだ、とパウロは教えている(ロマ8・26~28)。「どのような時にも、御霊によって祈りなさい」(エペ6・18新改訳)とあるが、この「御霊による祈り」の中に「異言の祈り」が含まれることを否定はできないのである。それはいやしをもたらし、奇蹟をもたらす御霊の賜物と連動するのだ。
また「御使いの異言」というのもある(Ⅰコリ13・1)そうだが、これがどういうものかわたしは知らないが、聖書にそう書いてあるのでそのようにあると受けとっておくのが良いでああろう。聖書は誤りなき神の言葉であるからだ。自分の未熟さによって聖書の言葉を限定したり、否定してはならないのだと思う。
体に各肢体があるようにすべての部分(クリスチャン)が異言を語らねば救われていないとか、成熟したクリスチャンは異言など必要ない、用いてはならないなどと指導することも誤りと言える(Ⅰコリ12・30,14・39~40)。聖書が教えているのに、その体験を禁じたり、交わりから除外したり、その働きを否定するのはなぜだろうか。まぜ自分の解釈だけを押し付けるのか。おそらく無知、偏見、未熟、傲慢があるからかもしれないし、自分の過去の傷が原因となって衝動的に反発しているのかもしれないので、その心の傷が癒されることを祈らねばならないかもしれない。異言を語る人もまた誇ったり、優越感をもって異言を語らない人を見下したり否定したりしないことだ。そうでないと異言派の人は御免だと拒否するようになるものだ。慎みの霊に包まれることも大事なのである。いづれにしても聖霊に満たされ、全能の神による心の支配を通して異言が与えられることはある。主はわたしが言わせる通りに話せと望まれる。賛美があふれ、祈りが起こり、喜び、小躍りする。にもかかわらず異言の体験をしたこともない人だっている。それはそれでよいではないだろうか。御霊のご支配にお任せすることが大事なのである。旧約の詩人のように「主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください」と祈ることである(詩141・3)。