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説教題目

光の方へ足を入れなさい

日付

2023-07-16

御言葉

ヨハネ3章19~21節

 みことばは良い種で、いつまでも変わらない神の言葉であると言う(Ⅰペト1・25)。サタンが来て蒔かれた種を持ち去るまで、固い土でも掘り起こして発芽するまで生き続ける。やがて実を結び、収穫の時がやって来る。霊的な実を刈り取るにも忍耐が求められる。信仰を伝えるには、その信仰がどのようなものであるかを知らねばならない。何を、どのように信じたのかを人に伝えるには、自分が良く分かっていないとできない。キリストを心に迎えるのはどう祈ればいいのかを説明し、祈ってみることだ。
1 回心とは  人が自分をキリストに任せるとき、回心が起こる。ところが自らをイエスに任せない人もいる。イエスのなした奇蹟を見て一応は信じたかもしれないが生活に変化をもたらす信仰でない場合もある。そのような場合イエスもそういう人を信用されたわけではなかった(ヨハ2・24)。まだ自分勝手な道を行くさまよえる羊の如くであった。回心した場合、キリストに対する反抗をやめ、両手をあげて出て来るようなもので、そう簡単ではない。多くの教会や宣教プログラムでは、回心とは、キリストに降伏するというよりも、決断の行為として焦点を当てがちだ。決断した何かの形を示せばそれで満足している場合が多い。その結果、多くの回心者が報告されても、わずかな実しか残っていないことが良く起こる。福音は「信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」(ロマ1・16)のはずなのに、キリストを信じた人の生活にほとんどの変化が見られない場合もある。これは福音が歪められ、純粋性が失われた姿であり、もはや決断だけでは回心者と決められない時代となっている。
2 本当の霊的回心  神が人を御自身に引き寄せる過程で起こる出来事が霊的回心である。人が神に応答し、任せない限り、神はその人を引き寄せ、信用しない。では神を迎え入れるにはどうすればいいのか。この神との新しい生活ははっきりとした目的がある。それは「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、広く伝えるため」(Ⅰペト2・9)であるとペテロは説明している。それは次のような生活をする時に実現すると語っている。「異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、・・・・あなたがたの立派な行いを良く見て、おとずれの日に神をあがめるようになります」(同2・12)。神の国の市民として、今を生きるようにと召されているのだ。つまり新しき信じた人たちは、自分が神から選ばれた民、神の民でありそうなる様に将来像をつかむ必要がある。その為に神の望む所へ手助けに行く。この初期段階で抱えていた心の傷がいやされ、抱えている様々な問題を解決する策をイエスの内に見るようになる。こうして成長へと進むことができる。神が求めていることへと関心が移っていく。こうしてみことばに目を注ぐと霊的回心に向かう。
3 進むべき道の発見  わたしたちはキリストを信じるまで暗闇の中に生きて来た。イエスは光の例えを用いてこう告げている。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし真理を行う者は光の方に来る」(ヨハ3・19~21)。そしてこう言われた。「わたしを信じる者が、誰も暗闇の中にとどまらないように、わたしは光として世に来た(ヨハ12・46)。進むべき方向が見ず誤った方に行っては突き当たり、傷つきながら、ほとんどの人を傷つけてきた。その当時の生活の影が今も残っている。それ故にイエスはこの傷をいやすために来られたのである。イエスは御自身が「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるためである」と語られた(ルカ4・18-19)。ではわたしたちはどうすればよいのか。イエスはわたしたちがどうすることを願っておられるのだろうか。イエスは「光に足を踏み入れ、どうしようもないガラクタの生活を表に引きずり出しなさい。そうすれば乗り越えられる」と言われるであろう。ところがわたしたちのなすことは心に触れてほしくないので逆をなす。よって神も人を遠ざけようとする。隠している限り、解放もいやしもない。ところが光に足を踏み入れるや、いやしが始まる。それは見せかけの自分でなく真の自分を現わすことを意味する。考えただけでもしり込みするが、そうしなければいけないとイエスは教えているのだ。そして暗闇に隠していた恥ずべきことを正直に言い表し、互いのために祈り合うことだと教えている。「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」(ヤコ5・16)。
越えねばならない最初のハードルは、祈りそのものだ。他人の前で祈ることは冷や汗ものであるが、これから始めなければならない。これこそ光へと足を踏み入れることだからである。安心感がないとそれもできない。安心だとわかると秘密も打ち明けられるからだ。責められると思うと足を踏み入れられないからだ。よって人を罪から救い出すには共に祈る人の対応が大きく影響するものだ。
新しく信仰を持った人は、暗闇から神の国に移って来たばかりの〈移民〉とも言える。神の国の流儀にしたがって生活することを学ぶ必要がある。生活の特徴は、霊の実によって特徴づけられる。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」である(ガラ5・22)。それはあらゆる部分に影響を与える。動機が宿る内面生活から、人間関係、仕事、時間の使い方、金銭の使い方、そして遊びに至る外面的な生活に至るまですべてにである。こうして神の国の市民として生きるとき、この世の人と混じり合って生きても、気づかれずにすむことはない。これが、パウロが言いたかったことだ。「心の曲がった頑固な人がひしめいている暗い世の中で、・・・きよらかな生活を送り、・・いのちのことばを高く掲げ、灯台のように輝きなさい」(ピリ2・15~16)。これを行うには確かにハードルは高い。飛び越えられない程だ。それでも神にしたがう道を選べるというのである。それは聖霊により頼むからこそ行えるのだというのである。

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