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説教題目

キリストに導くみことば

日付

2023-07-09

御言葉

ルカ福音書24章32~35節

 人の何かを伝えるにあたって、洗練された議論も、見事な弁証論も、聖書が人を導く力とは比べものにならない。疲れ打ちのめされている時、どんな人の慰めの言葉も役に立たないこともある。ところが人が誠実に聖書に取り組みさえすれば聖書の言葉が力をもって心の中で燃え立つ。
1 燃え立つ言葉  ぴたりと急所に針を刺すと麻痺していた部分、傷んでいた部分がたちどころに回復し、正常に近づくもんだ。そのような言葉を人に常に語ることができたら何と幸いかを思う。これは聖書の言葉でも同じで「箴言」はそのような知恵の言葉で綴られているが「箴」とは針のことを指し、病を治す時に用いる。心の迷い、痛みを適切な言葉を語ると人の心をいやし、強めるものだ。
 エルサレムから11キロ離れたエマオという村に二人のイエスの弟子たちが話しながら歩いていた。イエスの十字架にかかったこと、葬られたこと、そして復活したことを話し合っていたところ、ある人が連れ立って歩き始め、「何やら熱しにお話しのようですね。いったい何がそんなに問題なのですか」と尋ねた。その一人クレオパという弟子はあきれたように「エルサレムにいながら、先週起こったことを御存じないのですか」と言います。「どんなことですか」。そこで二人はナザレ出身の信じられない奇蹟を幾つもされたイエスのことを話しだした。「この方こそ栄光に輝くメシヤで、イスラエルを救うために来られたに違いないと考えていたのです。でも祭司たちや宗教指導者は理不尽ンにもこの方を十字架につけてしまったのです。ところがそれで話は終わらない。弟子の婦人たちが奇妙なことを言い出したのですよ。三日目に墓に行ってみると体は影も形もなくなっているというじゃありませんか。しかもその場に御使いが現われて、イエスは生きていると語っとか何とか」。それを聞いた傍らを歩いていた人は、旧約聖書全体を引用して救い主について解き明かしたのです。そうこうしているうちにエマオに近づき、先に行こうとしておられるので引き止めたのですが、その姿は見えなくなったとき、その人イエスだと分かったのでした。二人はあっけにとられて「そう言えば、あの方が歩きながら語りかけてくださった時も、聖書の言葉を説明してくださった時も、不思議に不思議に心が燃えたなあ」と言い合った(ルカ24・32)。「神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、・・・も刺し通す」のだ(ヘブ4・12)。そしてわたしたちの心を燃やす。 聖書の力は、聖霊によってもたらされるのである。
2 御霊の剣を使う   自分の信仰を伝えるにあたって議論に打ち勝ったところで、相手が動かされるわけではない事を知る。しぶしぶ認めたに過ぎない。ところが聖霊がなしていると「罪について、義について、裁きについて、誤りを認めさせる」(ヨハ16・8)ことに気づかされたことがある。それ以来考え方が根本的に変わりみことばが瀬入れの働きを受けて人を神に近づけることを知ったのである。それ以来、わたしの役割りははっきりしてきたのである。使徒ヨハネはこう言っている、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハ1・18)。イエスが神でなければ、わたしたちは神を知ることはできない、ということだ。神を明らかにするためにイエスは来られ、このことをヨハネ福音書は語っているのである。イエスが本当に神であるなら、イエスに対して真剣に取り組まなければ理にかなわない。キリストについて全く知らない友人と過ごすとき、わたしたちが何をすべきかを絶えず主の導きを求めることが必要となることを頭に入れておくべきだ。彼らと同じ道をわたしたち信徒もまた歩んでいるのだ。
 わたしたちも道々歩きながら聖書を読んだことのない人とも意見交換をすべきだ。どんな質問でも聞いてみることだ。第一、自分が聖書をすべて知っているわけでもないので、議論に打ち勝つ必要もない。わからなければ「わかりません」というのも立派な答えだなにも同意させたり説得させたるする必要もない。メシヤを信じさせようとする必要もない。聖書のある個所の内容をつかむことができれば役割は終わる。それからは聖霊の出番で、聖霊の剣が悟りを得るように間違った考えを切り分けるからだ。みこととばの旅路を歩み出せれば私たちの役割は終わる。
3 関心を持つ人に対して  多くの人はキリスト教や信仰に関心を持っている。現代のようにフェイク(偽りの情報)が流れる時代は真理を求めてさまよっている。しかしそれに近づくのを騙されるのではないかと恐れているのも事実であろう。そこで時間を決めてグループで学び会を持つと良い。時間通り始め、時間通りに終わる。デスカッションには食い込まず、気言葉自体が語りだすのを待つように仕向ける。議論はしないことだ。おかしな意見があっても、深入りせずに受け止める程度で軽く流すことだ。真理は聖霊が示してくれるので、追求しないことだ。そして次回、そのおかしな受け止めについて問題提起し、共に考える機会を持つと良い。心が燃やされるみことばに出会うまで平安はやって来ないからだ。みことばはキリストにある平安を与えるからだ。そしてわたしたちの心を燃やすのは主の語られたみことばは生きて働きだすところに起こるからだ。

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