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説教題目

いやしの賜物の多様性

日付

2023-09-24

御言葉

ヤコブ5章13~16節

いやしを考えるためにはどうあるべきか。そのためには「何かをなす(to do)前に、何かである(to be)ということをまず考える」(新渡戸稲造)ことではないか。今の世の中はウクライナ・ロシア対立を含め、騒然としている。この現代の世界のいやしを含めどうすべきかを考える前に、どのような存在であるべきかを考えられれば幸いである。
1 いやしの方法と手段
 使徒言行録をみるとそこには様々の人によってなされたいやしをみると手段や方法にもいろいろある事に気づかされる。ある人の場合は、主イエスが誰かをいやしておられるのを知らされていやされたと宣言している。自分では誰をいやしたかも知らない場合もある(キャサリン・クールマン女史)。ある人の場合は、どのような病気がいやされるかを主イエスから示され、実際にこの病気を持っている人を会衆の中から招き、一人一人祈るのだが、それは事前に「知識の言葉」として情報を主から教えれているようである。
 ある人はいやしのために手を体の上に置くのだが、別の人は手を置くことを避けて祈る場合もあるのである。
 またある人はいやしのために長い時間をかけて祈るのだが、ある人は、一回だけ祈り、それ以上祈るのは不信仰だと教える人もいる。ある人は、ヤコブの手紙5章にあるように、油を塗って祈り、ある人はことばだけで油を用いず祈る人もいる。このようにいやしの方法だけでも多様性があり、どれが正しいというものでもないようである。いずれにしてもいやされるのは主イエスであり、主に栄光と賛美と誉れを帰せればそれで良いように思えわれる。その時のいやしの実施者は単に主が用いられる器でしかないのである。
実例を挙げよう。キャサリン・クールマン(1907~1976)著書『聖霊の賜物といやし』である。彼女は米国ミズーリ州に生まれ1930年代に宣教を開始し、多くの奇蹟といやしで有名となった伝道者であった。彼女は聖霊の力によっていやしを受けることができると信じるようになると人々を励ました。特にイエスとの個人的関係に重要性を強調した。それによって受けるいやしは肉体的なものに限定されず、感情的、精神的ないやしにも及ぶと信じていたのである。彼女の奉仕には、癌、関節炎、心臓病などの身体的な治癒だけでなく、感情的および霊的な治癒も含まれていた。多くのいやしは記録され、文書化され、録音化されているし、また多くの証言で満ちている。いやしは、タッチせずに、自分の無力を祈りの中で告白していく中で、知恵・知識の言葉から預言し、その後実際にいやしがもたらされた。いやされた人々の顔は輝きに満ち、歩けなかった人の足は喜びに満ちて歩き出した。にもかかわらず、これらのいやしの活動には批判や論争がなかったわけではない。信憑性を疑問視する人も多くいた。また聖書のメッセージを歪めると感じる人もいたようである。にもかかわらず20世紀半ばの彼女の宣教といやしの働きは多くの人々を魅了したのも事実であった。一億人の人が神の愛と力を、彼女を通して受けたと言われている。彼女に触発されて自分の宣教の働きに取り入れた人々も多くいた。単立馬橋キリスト教会の創設者・新井宏二牧師もその一人だった。米国カルフォルニア州のベテル教会のビル・ジョンソン牧師もその一人である。オーラル・ロバーツ牧師、デビット・テイラ-牧師 ベニーヒン牧師『聖霊さま、おはようございます!』(序文・大川従道牧師)など多くのいやしの働き人はおられる。
2 病のいやしと聖書
 福音書にはイエスによるいやしの記事が溢れている。ある教会の人たちは、「このいやしの働きは新約時代だけでいまは既に終わった」と否定する。しかしイエスは同じことをするようにと弟子たちに命じている。第一に、いやしは福音宣教と同じレベルで行われている。第二に、イエスの病に対する動機、第三に、弟子たちに福音宣教を含めいやしを命じている。これらを弟子たちの召命に繋げている。かくしてイエスのミニストリーは、教え、福音宣教、病のいやしの三つによって成り立っていたのである。そもそも病は死を弱くしたもので、死は人類に罪と共に入って来たのである(創3・18)。医学が発達したのでいやし不要論もあるが、しかし、イエスは公生涯で病や障害を持つ人々をいやされた、「御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた」(マタ9・35)と記されている通りである。これが「御国の福音」で、「御国」とはギリシャ語でバシレイアで、英語でキングダム(王国)という。「教会」というより「王国」が御国なのである。この御国が完成した時に起こる出来事をイエスは弟子たちに体験させで宣教に遣わされたのである。御国に入ることの入口がいやしでもあったのである。それには「主の器として用いてください」と祈ることが必須条件であるとのことである。また聖霊が働かれる場合は、みことばが語られ、キリストが崇められ、主の民が一つにまとまって来るものである。そこには憐れみの心で満ちた人が溢れて来る。そのそうな人のところにいやしの業が次ぎ次に起こり、解放されていく。この憐み、愛とによる癒しの力が現れること以外の動機を捨て去ることがいやしをもたらすことになると思われる。いやしの賜物は様々なものがあり、様々なスタイルがあるが「主よ、お用い下さい」との祈りから始まると言える。

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