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『主の復活を知る』

主イエスは私たちに新しいビジョンを与えたいと願っています。そのために主はご自身の復活を見、またご自身が夜明けの雌鹿であることを見てほしいのです。この点について今朝はお話しいたします。

1 さらなる啓示

 イエスは十字架上で私たちの罪を担い、神によって見捨てられ、復活の中へと入って夜明けの雌鹿となられました(詩編22編の表題)。主は雌鹿として活気と活力に満ちており、また私たちがそれを見るように召しておられます。山々を飛び越え、丘の上を跳びはねています。雅歌の中で、愛する方は娘に言います、「起き上がり、・・・出て来なさい。見よ、山鳩の声が、私たちの地に聞こえる」(雅歌2章10-12節)。

 これが示しているのは、主が私たちを導いて復活のビジョンを見せ、復活の中で主と共に前進するために連れ出そうとしているのだと言うことです。これは主の召しです。

2 復活を知るために死を経験する

主は復活するためには、死を経験する必要がありました。同様に、パウロは霊的でしたが、獄を含む多くの苦難を経験する必要がありました。

 獄の中にいること・・・束縛と制限を表徴、不自由獄の中にいる広い意味合い・・落ち込み、霊が沈む時、私たちは「獄」の中にいる。→主の死と復活の力の経験する機会なのです。

 獄の中の苦難は、主の死に同形化されるための天然の要素を死に渡す『霊的な殺し』です。肉に属するものをすべて殺し、霊に属するものをすべて復活させるのです。

 私たちが試みの獄に置かれる時、かもしかや雌鹿としての主ご自身のビジョンを私たちに与えます。

私たちは壁の中に監禁されるかもしれませんが、主は山や丘によって妨害されることはありません。主は山々を飛び越え、丘の上を跳びはねるからです。冬が過ぎ去り、雨も上がったので起き上がり、外に出て来るように召されます。これは、「死」が過ぎ去ったことを意味します。

 私たちの感覚では依然として死の中にありますが、主は言われます、「死のものはすべて終わり、過ぎ去ってしまったのだから、あなたは起き上がり、私と共に出て来なければならない」。これが〈復活〉です。

 このゆえに、パウロは獄の中でフィリピの手紙を書いた時、繰り替えし「喜ぶ」と言い、主にあって喜びなさい(2章17-18節、4章4節)と言いました。

 パウロは超越しています。環境に縛られませんでした。なぜならパウロは復活を知っており、また投獄の苦難に復活の力を適用する方法を知っていたからです。投獄の苦難は、パウロの天然の要素を死に渡し、他方、神のすべての要素を彼の内側から生かし出させました。これがキリストに同形化されることです。

 私たちもかかる砕かれる経験をします。訳もなく病気したり、子どもが知的であることを期待していたのに愚かであったり、従順であることを期待していたのに、乱暴であったり霊的であることを期待していたのに主を愛さなかったりすることを発見します。また働きの中で私たちを刺し、傷つけるとげを負うような多くの状況を経験するのですが、これが「砕かれる」ことで、復活のための必要な過程なのです。主を追いかける者がたどるべき道です。

3 復活を知る者は制限されない

 私たちの感覚では、この世のあらゆるものは死で満ちています。感情の中にとどまるなら傷つき、元気を失い、制限された部屋に住む弱い娘となるでしょう。それゆえに主は来て、召し出し、共に歩かせるのです。冬も過ぎ、雨も上がり、花が咲き乱れ、鳥がさえずっています。体を動かす時で、家の中で横たわっている時ではないのです。これがパウロの獄中での経験でした。獄の中で制限されていましたが、山々を飛び越え、丘の上を跳びはねていました。獄が彼を制限することはなかったのです。圧迫され、意気消沈してはいませんでした。獄にいながら、パウロは復活の中にいました。彼の霊は獄の束縛されていなかったのです。これゆえに「同じように、あなたがたは喜びなさい。そして私と共に喜びなさい」(2章18節)と言われます。

結論

 使徒パウロはキリストの復活を見て、知っており、そしてこの復活の中で他の人たちが耐えることのできなかった苦難を耐えることができました。キリストの死を身に帯び、それによってリバイバルの力を得ました。これは教会でも、個人的経験でも同じです。死を通過して復活、昇天し、主の復活の命の注ぎを受ける、この聖霊の充満を信仰を持って待ち望む事です。


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