『協力と分かち合い』
序
日本が新しい時代にめざすべき課題は何でしょうか。「令和」という元号が制定されますが、「令」を「冷」と誤解して、他の人を犠牲にしても何ら痛みを感じない「冷たい日本」になるべきではありません。また「令」を命令、「和」を平和と解して「命令と平和」つまり、支配者による命令に従わせることによって生み出される平和なる日本をめざすべきではありません。それよりも分かち合うことのできり日本ではないでしょうか。正義は支配力によるのでなく、天から注がれるものであるべきです。それだけが地に実りをもたらし平和を実現するのです。詩編85編は「正義と平和は互いに口づけし」と言い、「義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします」(13節、新改訳)と言います。したがって聖書の示す「正義」を実践する時、豊かな社会が生まれてくるのです。
1 分かち合うための正義
エジプトの奴隷だったイスラエル民象をモーセが引き出す時に「エジプト人から金銀の装飾品や衣類を分けてもらいなさい」と言います(出エジプト3章22節、12章35節)。それらは「エジプト人からの分捕り物としなさい」(出エジプト3章22節b)とありますからいわば略奪行為でした。しかしそれは決して強盗ではなく長い期間の奴隷労働のために遅れた義の支払いで、それは神の民を裕福にするためでなく、幕屋の建設のために用いられました(出35章4~9節)。この世の財物を奪うことは、不義によって何かを得ることではなく、この世でなした苦労から得たものを用いて、神の住まいを建造することです。それは、エジプト人が当然分かち合わねばならなかった物を、奪っていた、それをイスラエル人は自分たちの持ち分として持ち出したのです、そうすんなり返してもらえないので「エジプト人からの分捕り物」としなさいと神は命じたのです。このため力づくでイスラエルの民は力を行使するのですが、これが「正義」であったのです。聖書で言う「正義」は、力ある者より強くなっていくことではなく、弱い者が守られ、満たされることです。むしろ力を持っている者はその人々に奉仕する、与えられている力は自分のため、自分の権力を行使するためではなく、それを弱い人々に奉仕するため、神の御用のために用いて「分かち合う」ためのものであることを忘れてはならないのです。日本や強いアメリカが再考する道があるとするなら、自分の手に入れた物をすべて神から与えられた物として「分かち合う」ために位置付けなければなりません。 メイフラワー号に乗ってアメリカ大陸に行ったアメリカの最初の人たちはインディアンと呼ばれた先住民から種を分けてもらって最初の収穫をした時、「収穫感謝祭」を祝って食べ物が与えられたのを感謝しました。やがて豊かになったアメリカは貧しい国に行き、いろいろな物を売りつけて、利益を得て豊かになりました。その利益を陰で世話になったインディアンの人たちにお返ししてあげることが分かち合いです。またより貧しい国々に行って、その国を豊かにすることが分かち合いであります。貧しかった時代の日本を忘れないで、神が与えてくれて手に入れた物を、隣人と分かち合う時、日本は「豊かな日本」となって行くのです。この4月からNHKテレビのBS放送で「おしん」というドラマが再放送され出しましたが、それは貧しい時代を忘れないで、分かち合いに生きることの意味を持っているのではないかと思えます。
2 お願いの精神
「分かち合い」という技術は人間関係を生きる私たちにとって有効なスキルです。これとは反対に強奪の連鎖もあります。奪われたから奪い返すという暴力の連鎖です。これを止めるにはその痛みに共感する機会が与えられることが大事です。不当に扱われた痛みを分かち合うこと無くして八つ当たり的暴力もなくならないのです。 人が話している時に割り込んできて声を上げる人もいます。何か聞いて欲しいのでしょうが、大事な話し合いの時とか講演会の時などは困ります。その時、「うるさい!黙りなさい」と命令口調で制すると、更に反発してくるのです。そこで「お願い、協力してくださいね」と言って静かにしてもらうと効果的です。「お願い、協力して下さい」の意味には「あなたの意志でこちらの願いを聞いて下さいませんか」の響きがあります。「ひとつこちらに寄り添って下さいませんか。そうしないと力のない私たちは困り果ててしまいます」という気持で言うのです。これは賀川豊彦が使った「協力」と言う言葉の意味です。彼は「協同組合」を指導したのですが、「協同」とは、十字架のもとに三人が力を合わせるように助け合うことと説明しました。三人がそれぞれ違った力を協力して一つのことをするのです。いわば「三位一体活動」です。たがいに忍耐し合いながら協力し合うのです。
適用
私たちは一人では生きられませんから協力し合い、分かち合う必要があります。相手の言動を我慢するのでなく、「協力する」という意思に変えて行くと人間関係が変わって行くのです。これは人間建築と言う芸術なのです。