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『人の子と神の子の境界』

序 

使徒パウロは、「神の福音」のために使徒となったと『ローマの信徒への手紙』には記されています(1:1)。その手紙の主題である「神の福音」とは何でしょうか? それは、イエス・キリストに関するもので、この方には二つの性質、神の性質(神性)と人の性質(人性)がありました。この方は、人の子として生まれましたが、復活の中で、人性を伴ったまま神の子と定められたのです(1:4)。この人の子と神の子との境界について考えてみましょう。

1 神の子としての誕生 

イエスは飼い桶の中で人の子として生まれましたが、復活の中で神の子として生まれました。使徒言行録13章33節でパウロはこう告げています、「神はイエスを復活させて・・・・それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです」。どの日にイエスは神の子として生まれたのでしょうか? 復活の日にです。イエスの復活は誕生でした。

 では復活前のイエスは神の子ではなかったのでしょうか? そうです。詩編二編七節は、イエスが復活の中で神の子として生まれることを預言しました。これをどのように説明できるでしょうか? イエスは受肉して人となられた神の子でした。厳密に言って、人の部分は神の子ではありませんでしたが、彼の人性の内側には神の子がおられました。ですから、彼の神聖な部分は神の子であって、神の子として生まれる必要はありませんが、彼の人の部分は神の子として生まれ、定められる必要がありました。

 主は復活の前に神の子でしたが、人々が彼を見る時はいつも「この人は誰だろう、神の子なのか?」と尋ねました。それは神の子であったにもかかわらず、どうしても人々は彼について疑問を持ったのでしょうか? それは彼の人の部分があった故です。彼の人性はどうしても神の子とは見えなかったからです。それゆえに死と復活の手順を経て、人の部分を神の子たる身分へと造り変えられたのです。今や、イエスは復活の後、神の子であることを誰も疑問を持たずに「イエスは、神の子キリストです」と言ったのです。こういう訳で、イエスは復活の中で生まれ、神の子と定められる必要があったのです。この意味でイエスは復活の中で生まれた子供でした。復活の後、イエスは神聖な命と人の性質を持ち、栄光を受けた神性と「息子化された」人性の両方を持つすばらしい子供でした。

2 復活の喜び  

イエスは十字架に懸かる直前に弟子たちに「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と言われました(ヨハネ16章16節)。イエスは死んで葬られ、弟子たちはしばらくイエスを見なくなる、しかし「しばらく」の後、彼らはさらに長く見るのです。なぜならイエスは復活するからです。しかしこの世はイエスを見ることができません。なぜなら、この世は「復活されたイエス」を見ることがないからです。ただ弟子たちだけが復活されたイエスを見ることができます。イエスは「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」(ヨハネ16章20節)と言います。つまり、この世の人々はイエスの受難を見て、それ見たことかと大喜びをし、弟子のあなた方は悲しむでしょう。しかし、やがてイエスに再会する時、悲しみは喜びに変わるでしょうと言われました。「女は子どもを産むとき、苦しむものだ」とも言います。この「女」とは、弟子たちのことを言っています。ヨハネ20章20節には、イエスの復活の日の夕方、イエスと再会した弟子たちは「喜んだ」とあります。これは16章22節の主の預言の成就です。イエスは弟子たちが喜び楽しむことを預言され、復活の日にかれらは主イエスを見て喜んだのです。

3 主の名による祈り 

イエスはこう預言しています、「その日には・・・あなたがたがわたしの名によって何かを願うならば、父はお与えになる」と約束されました(ヨハネ16章23)。イエスは復活を通して神の子として生まれ、命を与える霊となりました(Ⅰコリ15章45節)。今や、「イエスの名によって」祈る、つまり「イエスの中で」祈るならその祈りは必ず答えられると言うのです。つまり、主の復活の霊である「聖霊」と一体となって祈るのです。私たちが自分で祈るのでなく、主の霊と一つとなって祈るのですから、イエスの名によって祈るとは、聖霊の中での祈り、聖霊の中で事を行い、要求することと言えます。そのとき「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」のです(16章24節)。そればかりか聖霊を受け、主と一体となると、もし私たちが人の罪を赦すなら、その罪は赦され、赦さなければ主もまた赦さないままであることを意味します。ヨハネ20章22~23節はこう言います、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないままである」。なぜなら、聖霊の中で私たちは裁き主キリストと一体であるからです。聖霊との一体であるとの確信がある時、その霊の働きがなされるのです。

結論 

主が弟子たちに父なる神について知らせることを約束されました(ヨハネ16章25節)。これは復活の後、主は弟子たちの所に戻り、成就し、弟子たちと一体となり、その時から、主の御名で祈られるようになり、父なる神と一体となりました。人の子と神の子の境界が無くなり、真の平安、喜びを持つことができるようになったのです。これは聖霊の働きを通して起こる現象です。それは罪人に自らを責めさせ、キリストを啓示し、栄光と神聖な命で満ちた「教会」へと住まわせて下さるのです。この教会は、神の命に満ちている有機体であって、神の永遠の目的を成就するのですから力が与えられるのです。この神聖な奥義のゆえに、ハレルヤ!


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