『ナザレのイエス』
序
マリアは、ガリラヤ湖の近くの寒村ナザレで子どもを身ごもりましたが、キリストはベツレヘムで生まれると預言されていました(ミカ書5章2節)。神の主権の按配のもとで皇帝アウグストは、ローマ帝国の第一回の戸籍登録の勅令を出しました(ルカ2章1~7節)。
これによってすべての民は自分の故郷に戻ることが余儀なくされたのです。マリアとヨセフは彼らの故郷であるベツレヘムに戻されました。そこに到着した直後に、イエスが生まれました。三人の博士たちの過ちがヘロデ王の憎しみと妬みを引き起こし、幼子たちを殺そうとしました。そこでヨセフはそのイエスを連れてエジプトに行くように夢のお告げを得て旅立ちました。
ヘロデ王が亡くなった後、ヨセフは別の夢を見て、戻るようにと告げられましたが、戻ってみるとヘロデ王の子であるアケトラがその地を治めていたのでベツレヘムを離れてガリラヤ湖に近くのナザレに行きました。こういう訳でイエスは「ナザレのイエス」と呼ばれたのです。これらのことの意味は何でしょうか。
1 隠されたイエス
それは、イエスは人の中に生まれた時、幾らか隠された方法で現れたと言うことです。ベツレヘムで生まれると聖書で預言されていながら、だれもが「ナザレのイエス」と呼んだのです。フィリポはイエスに出会った時、メシヤであると認識しました。ナタナエルの所に行き、自分はメシヤに出会ったが、彼はヨセフの子であり、ナザレ人であると言いました。すぐにナタナエルはこう言いました、「ナザレから何の良いものが出るだろうか?」(ヨハネ1章45~46節)。
しかしフィリポはナタナエルと議論せず「来て見てください」と言っただけでした(ヨハネ1章46節)。事実の提示です。感情の露出は失敗のもとです。このようにイエスはガリラヤのナザレから出たかのようですが、実はベツレヘムで生まれたのでした。隠されていたのです。幕屋も外側から見るとジュゴンの皮で覆われ見栄えのよいものではありませんでした。しかし内側は亜麻布と金と宝石でできていました。教会の霊的な原則は、それと同じです。使徒パウロも小柄な、体裁のよくない風貌だったようです。ですから外観で人を知るべきではありません。内なる霊によって知らねばならないのです。外見上、ナザレのイエスでしたが、内側には栄光がありました。
2 輝く星を持つ
キリストを見出すために、私たちは輝く星を持たねばなりません。外観に従って行動するのでなく、内側にあるものに従って行動しなければなりません。教会や聖徒たちを知るにしても外側の事柄に重きを置くべきではありません。イエスは、異邦人のガリラヤで育ち、人々の見くびられていた土地柄で育った方でした。しかし、イエスを追い求めるなら霊的な事柄がしだいに見えてきます。内側の豊かさが見えてくるからです。教会も同様です。教会の中にとどまり霊的な事柄を観察するのです。秘密となっている内側にある黄金、乳香、没薬を見つけるのです。キリストと出会うとき、そこにそれらの尊い宝を見出すからです。
適用
マタイ2章23節はイエスの事を「彼はナザレの人と呼ばれる」とあります。ある人たちは、この「ナザレ人」という言葉が、民数記6章2節の「ナジル人」を指すと言います。またある人はイザヤ書11章1節の「枝」のヘブル語ネチェルを指すと推測しました。しかしそこまで推測しなくてもいいかもしれません。外見上、イエスはナザレ人であったのです。
どこの国籍であるとか、出身地であるとかが問題なのではありません。貧しい家庭に生まれたとか、差別されている地域に生まれたと可が問題なのでもありません。
私たちは神の使命をもって大いなる業をなすために隠されている存在だと言うことです。内側から聖霊が流れ出る時、私たちは人を生かし、環境を造り変える大いなる働きができると言うことです。聖霊充満にされて神の業をなし、日本にリバイバルをもたらす者でありましょう。