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『明けの明星』

三人の博士たちは飼い葉桶のみどりごイエスを見出し、礼拝し、黄金・乳香・没薬の宝を献げた後、元の道ではなく別の道を通って帰るようにとの夢のお告げがありました。キリストに出会うには聖書によるだけではありません。みことばは助けになりますが、基本的原則は生ける星、天のビジョンと共にあります。それは天に輝く星をいかに持つかと言うことです

1 生ける星

聖書は、生ける星はキリストであると言います。キリストは星となり(民24:17)、星として来られ(マタイ2章)、星としてとどまられる(黙示録22:16)と予言されました。キリストは輝いておられます。ではどのように私たちはキリストを星として持つことができるのでしょうか?

Ⅱペトロ1:19によると、星は聖書と関連しています。「こうして、私たちには、預言の言葉はいっそう確かなものになっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意してください」。

ペトロは、私たちの内側で夜が明けて、明けの明星が心の中に昇るまで、確かな「預言の言葉」に注意を払いなさいと告げます。それは単にみことばを読むことではなく、私たちの内側で何かが昇るまでみことばの中に入り込むことです。みことばと格闘するのです。この何かを夜明け、または太陽と呼んでもよいでしょう。この箇所では、太陽は実に「明けの明星」です。太陽のようにキリストは私たちの心の闇を照らしますが、みことばが真に照らすのではありません。

しかしみことばに心をとめない限り、内側を照らすキリストによる輝きを見ることはできません。 キリストは星です。聖書ではキリストに従う者たちも星であると言います。黙示録1:20では、教会生活の中ですべての導く者たち、使者(天使たち)は星であると言います。ダニエル書12:3で「多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」とあります。

2 星をいかに持つか

今日、星に照らされる方法はただ二つしかありません。

第一は、確かなみことばに来て、全存在を開くことです。何かが内側で昇って来て、照らすまで、口も、目も、耳も、心も開くことです。

第二は、輝く聖徒たち、キリストに従う者たちのもとに来ることです。そこに行くなら光を受けるはずです。何らかの導きを受けます。

それらいずれの方法も、聖霊と教会とに結び付けられています。「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために・・・証しした。わたしは、ダビデのひこばえ(切り株から出た芽)、その一族、輝く明けの明星である。」主イエスが明けの明星であると述べる黙示録22:16のすぐ後で、「霊と花嫁とが言う・・・」と言います。これは、明けの明星として、主イエスが霊と花嫁である教会とに結び付けられていることを明らかにしています。キリストは「神の七つの霊と七つの星を持っておららえる方」と呼ばれており(黙示録3:1)、「七つの星」は、「諸教会の使者たち」です(黙示録1:20)。このように星は霊ばかりか、諸教会と結び付けられています。よって私たちが生ける星を持ちたければ、聖霊だけでなく、教会も必要とするのです。聖霊により教会を通して天のビジョンを持つのです。それによってキリストを見出し、感謝をささげるのです。。

3 エジプトに逃げる

キリストはベツレヘムで見いだされました。それによって問題が生じました。その問題を通して神は、そのみどりごをベツレヘムからエジプトに連れて行かれました。それはホセア書11:1でこう預言されていました、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」。このホセア書では、イスラエルを神の妻としてみなし、神が人となり真のイスラエルと一つとなり、結合し、エジプトから召し出されたキリストを暗示しています。三人の博士たちはベツレヘムで誤りを犯しましたが、それによって預言が成就する機会を与えたのです。全力を尽くして慎重に事をなしていても誤りを犯すことはあります。正しくあろうとして犯す間違いは、神の目的を果たす機会となるのです。

適用

ヨセフとマリヤとイエスは共にエジプトに逃げたので、イエスは殉教しないですみました。サタンはいつでも私たちが殉教する機会を待っています。しかし、神は親愛なる者たちを敵の策略から保護するために、あらゆるものに対して主権を持って対処します。神の主権によってイエスは保護されたのです。私たちも主の保護を受けましょう。


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