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「降誕のメシヤを見出す方法」

マタイ福音書の第一章はイエスがこの地上に誕生し、神が人として出現したことを告げています。第二章は続けて、メシヤ(救い主)を見出す方法を示しています。この方は今、ここにおられますが、問題は、どのようにメシヤを見出すかと言うことです。

1 異教の博士たち

この世の救い主はイエスとして誕生しました。ではどのように見出されたのでしょうか。その当時、ユダヤ教という宗教がありました。旧約聖書三九巻を学び、組織され、構成された宗教でした。しかしそのユダヤ教の中にいた人でメシヤが来たことを知っていた人は、ほとんどいませんでした。これに反して数人の東方の異教徒の星占いの博士たちがこのイエスを探し求めたという記録が新約聖書にあります。それがマタイ福音書の二章の記録です。もちろん、これは彼ら自身が始めたのでなく、神によって始められたことでした。神は東方の博士たちに輝く星を与えて、彼らを導かれました。この星は、聖なる地パレスチナには現れず、はるか遠くに現れたのです。

聖なる都エルサレムから遠く離れており、聖なる神殿と聖なる宗教から遠く離れており、聖書からも、聖なる人たちからも。聖なる祭司からも遠く離れていました。そんな遠くで、その輝く星は異教の地の数人の博士たちに現れました。その星はユダヤの王に関して、異教の博士たちをかき立てました。彼らは天の星(生けるビジョン)を持ち、ユダヤの宗教家たちは聖書を持っていました。皆さんは、聖書と生けるビジョンのどちらを持っているでしょうか? 聖書を持ち、天にある星を見たいものです。私は、聖書に関してはユダヤ人のようであり、星に関しては異教徒のようです

2 間違った知識

博士たちは星を見た後、問題を引き起こしました。それは彼ら自身の思い込みから生じました。彼らは星を見て、それがユダヤ人の真の王を指し示すものであるとわかると、ユダヤの国の首都エルサレムに行かねばならないと決め込み、そこにユダヤの王がいると思い込みました。エルサレムに向かった彼らの決定は、その星の光によるものでなく、思い込みからでした。当然、間違った場所にたどり着きました。正しい路線から逸れてしまったのです。

エルサレムは間違った場所であり、神殿が置かれていた場所でしたが、そこでイエスが生まれたのではありませんでした。博士たちは惑わされ、深刻な問題を引き起こしました。危うく誕生したばかりのイエス様は殺されそうになりました。彼らの誤りは、多くの子どもたちの命を奪い去られる結果を生んだのです。これは聖書を天の星を持っているとしても、自分の経験や知識に頼ってはならないと言うことです。

3 聖書によって誤りを正される

しばしば私たちは天の星であるビジョンを持ちますが、惑わされることがあります。軌道を逸らされ、混乱を招くことがあります。そのような時はいつでも、聖書に戻ることです。博士たちはエルサレムまで来て、間違った場所であることに気づいた後、聖書を通して誤りを正されました。エルサレムでなくベツレヘムが正しい場所であると学んだのです。

もし:彼らが自分の知識や思い込みに惑わされなければ、星はベツレヘムに導いたでしょう。博士たちが誤りを正して、エルサレムを出発して正しい路線を回復すると、星が再び現れました(9節)。ビジョンは常に聖書と共に進みます。 しかしエルサレムにいた宗教的な人々、祭司たちも誰一人博士たちと一緒には行きませんでした。彼らは知識があり、メシヤはベツレヘムで生まれると人に語ることができたのですが、誰一人見に行きませんでした。

彼らは聖書の知識を欲しますが、生けるメシヤの人格を欲しなかったのです。今日でも同じです。聖書の知識を好んでも、生けるキリストを求めている人は少ないです。ビジョンを持つ事は一つのことであり、聖書の知識を持つ事は別のことですが、生けるキリストに接触することは更に別のことです。

適用

星は博士たちをメシヤのいる場所に案内しました。ベツレヘムの町だけでなくイエスのいた場所に案内しました。主を知るには聖書だけではありません。輝く星、つまりビジョンを必要とします。星はベツレヘムのみどり子のいる家の上にとどまったのです。これは聖霊の導きです。博士たちはイエスを見つけて礼拝しました(11節)。イスラエル人の間では、誰も他の人から礼拝を受けることは許されません。それは神に対する冒瀆だからです。にもかかわらず博士たちはイエスを礼拝しました。その子は神だからでした。イザヤ書九章六節は「ひとりのみどりごが生まれる。彼の名は『力ある神』と呼ばれる」とあります。博士たちの見つけたみどりごは力ある神その方でした。そして黄金、乳香、没薬をイエスにささげたのです。


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