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「献身としての降誕」

献身の根拠は何でしょうか。クリスマスは独り子イエスを贈って下さった神の愛の表現でもあります。この愛に人は感動し献身していきます。主の愛の感覚なしに自分自身をささげることはできません。生涯をささげるまえに見なければならないのは主の愛です。その最初の現れこそクリスマスです。神の子の誕生の祝いです。献身の根拠は、それだけではありません

1 献身の根拠

パウロはⅠコリント6章19-20節で「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を支払って買い取られたので。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」とあります。これは主イエスが私たちのために身代金を支払い罪から贖いだしてくださったことにのよりもはや自分の権利はなく、神に属する者とされ、自分お主権を喪失したのです。もはや私たちは自分自身のものでなく、主のものです。それゆえに神の栄光を現さねばならないのです。十字架の血でもって代価を払い買い取られたのです。ここに愛があります。よって主の権利のものとなり、その愛のゆえに私たちは主に仕えるのです。かくして手や足や口や耳を主の御用をするために用いることが献身です。献身は愛され、贖われたことの後に続く行為です。よってクリスマスでの神の愛の贈り物が何であるかを知った人は、この世のすべてのものから分離して自分を贖い、解放してくださった主の命令以外何もしなくなります

2 献身する人

 誰でもが献身できるわけではありません。イエスラエル十二部族全部が神のささげられた民となったのではありません。ただレビの部族の一家族、アロンの家族だけが選ばれました。献身する前に人はアロンの家族でなければなりませんでした。その家族だけが祭司となれました。今日、私たち主イエスを信じる者はアロンの家族で、祭司です(ヨハネ黙示録1章6節)。これは献身が自分から選んでなすのではなく、神によって選ばれた献身できるのです。わたしたちを特別な仕事に就かせてくださったのは神なのです。献身において私たちは高く上げられているのです。よってパウロはこう勧めます、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です・・・自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神の喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえしるようになりなさい」(ローマ12章1節)と。

3 献身の意味

献身の土台は罪の贖いのための雄牛の献げ物、焼き尽くす献げ物としての雄羊、任職のための雄羊の献げ物、種を入れない穀物です。このように献身は、聖い、生きた供え物で、それが礼拝なのです。ですから献身は、宣教したり働いたりすることではなく、主に仕えるために御心を聞くことです。主が立ってもらいたいなら立ち上がり、待ってもらいたいなら待つのです。これが献身の意味です。  主の誕生の目撃者となった羊飼いたちは、羊の世話は正業でなくなり、副業となりました。同様に私たちがキリスト者となるや、生計を維持するための職業は正業ではなくなり副業となります。最初の弟子たちのうち幾人かは漁師でしたが、主に従った後、成功した漁師となることを望まなくなりました。時折漁をしましたが目的が変わりました。

適用

私たちには万軍の主なる神に仕える道が開かれています。神の賛美の献げ物、犠牲の献げ物をささげることが霊的礼拝なのです。私たちのために犠牲となられた主イエスの御降誕を覚え、私たちもまた主の命令に従うしもべとなれますように祈りたいものです


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