「神に感謝すべきことは何か」
序
一年の終わりともなり収穫感謝祭を迎えました。では何を神様に感謝すべきでしょうか。 パウロはⅡテサロニケ2章13節で言います、「しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする霊の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです」。神は私たちを愛して(16節)、初めから私たちを選び、福音を通して私たちを召されました(14節)私たちが選ばれたのは、主の栄光を得るためです。そこで感謝すべきことは何でしょうか。
第一に、神による選びです
私たちが救われるのは永遠の過去において神は私たちのことを考え、選ばれ、救いへと至らせるためです。そのためにまず神は私たちを「まったく聖なる者」となすのです(Ⅰテサロニケ5章23節)。そのために神は教会に私たちを招き入れました。そこは聖別の過程です。教会での生活が秩序があり、整然としているとは思わないで下さい。散らかり、完全な人間関係があるわけではありません。聖別の過程には欠陥がつきものです。食べられない料理のようなものです。焦げたり、煮過ぎたり、しょっぱかったり、からすぎたりします。いうなれば教会はおいしいごちそうを作る台所のようなものです。そこでの料理は主の知恵と主権によってなされるものなのですが、多くの人が料理しようとしているので味や料理の按配は様々となるのです。教会生活の聖別の過程となそんなところです。そこで祈ります。罪が赦されるようにです。しかし救いは罪が赦されることではなく、聖別されることで、料理の過程と同じ経験をたどります。それは聖霊の内住によるものです。
聖霊は、みだらな行いを避け、聖なる者となるように牽引してくださいます。このことを感謝すべきです。この一年間での教会生活でどのように牽引されたでしょうか
第二に、「主イエス・キリストの栄光」にあずかるために召されたことを感謝します
(14節)
私たちが能力もなく、十分な資格もないのに召されているのは、福音を通して、主の栄光を得るためだと言うのです。「主の栄光」とは、主イエスが神の御子であって、御父と同じ命と性質を所有し、父なる神を表現することです。ですから主の栄光を受けるとは、神の子たちとして神を表現することです。イエスは祈りの中でこう言われました、「あなた(父なる神)がくださった栄光を、わたしは彼ら(弟子たち)に与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つとなるためです」。御父が御子に与えた栄光とは、父の命と性質を伴う子たる身分で(ヨハネ5:章26節)、御父を表現します。
栄光を弟子たちに与えたのは、父なる神を表現するためでした。これは神が私たちを召された目的でした。ですから、みことばで伝えられたことをしっかりと守りなさいとパウロは言います(Ⅱテサロニケ2章15節)。やがて聖霊に導かれて聖別された生活が現れ出し、主の栄光で神ご自身を表現できることを感謝します。「神の栄光」が私たちの内側に満ちる時、永遠の慰めが与えられます。これが「祝福」です。祝福とは、満たされた状態で、霊の働きがいかなるものによっても妨げられない感覚を生み出す心の状態です。罪責感と断罪感で追い立てられた不安の心も消え失せ、命を与える霊となった三一の神である「恵み」の中で望みが示され、救いを確信します。良き望みを持って慰められます。パウロは『永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる神』に感謝しています(同1章16節)。これらは、私たちの内側にある永遠の命です。これがあることを感謝するのです。
第三に、主の言葉が崇められることを感謝します。
神の愛の中へ、キリストの忍耐の中へと聖霊によって導いてもらい、サタンの前に敵対して断たれた主のように苦難を耐え忍び、主の言葉を信じきることを感謝します。みことばが崇められるには、人の霊が主の霊によって導かれなければなりません。主が牽引してくださることによって主の言葉が崇められるのです。このことを感謝します。み言葉を信じ時、造り変えられます。古き存在はそのままであっても、そこに新しき存在が満ちて来て変成するのです。
適用
収穫感謝祭とは、この人の霊が聖霊に牽引され、主の言葉を信じられ、思いもよらぬ恩寵の生活が圧倒されたことを感謝する喜びの時です。神の選び、神の栄光、神の言葉のゆえに感謝します。確かな希望があるからです。私たちの存在は単なる存在でなく、力ある存在なのです。