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「くびきの友と同じ思いを抱く」

フィリピの信徒への手紙4章2節でパウロは言います、「わたしはエボディアに勧め、またシンティケ((口語訳ではユウオデヤとスントケと訳されている)に勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」。この節は、二人の姉妹が互いに衝突していたことを示しています。そこでこの書には、福音のために心を合わせて(一つの魂、ミア・プシュケー)共に戦うように(1章27節)、魂において結合され、一つの事を思うように(2章2節)、同じ思いをもってキリストを追い求めるように(3章14節~15節)という勧告があったのです。4章3節によれば、彼女たちはパウロにとって助けとなった良い姉妹たちで、クレメンスや他の同労者たちと共に、福音のために戦ってくれたのでした。これらの姉妹たちでさえ同じ思いを抱くには助けを必要としました。では意見を異にするように誘惑されている者はどうあるべきでしょうか。

1真実なくびきの友

4章3節でパウロは「くびきの友」(新共同訳では「協力者」と意訳)という用語を使います。古代、農夫はすきを引かせるのに二頭の牛を使いました。「くびきの友」という用語は、別の人とくびきに繋がれて、同じ重荷を共に負うことを意味します。パウロは彼と同じくびきの下で、彼と同じ負担を担う者を求めていました。キリストを真剣に追い求めていないなら、私たちはまだくびきをかけられていないのです。もしパウロと同じくびきをかけていないなら、エボディやシンティケの反目を取り去るために助けとなることはできませんでした。パウロと同じことを思い、キリストを追い求めつつ、彼女たちを助けるようにエフェソの獄中から書き送りました。同じくびきをかけられて、勝手なことを思ったりせず、一つの事をおもうように告げました。パウロの心の状態は、キリストによってくびきをかけられており、キリストを離れて何かを考える自由もありませんでした。そこでパウロはこの反目し合う姉妹たちが同じ思いを持つ事ができるように助けることができる一人の聖徒、くびきの友を探し求めていたのでした。彼はそのような人は誰でも、まず彼自身が持っているのと同じ思いの下にくびきをかけられていなければならないと考えたのです。

2 くびきの友の意義

くびきの友と言うのは自分勝手なことができるような自由を持たない者です。一緒にくびきを負うわけですから同じ思いを持たねば物事がはかどりません。このことは、パウロのフィリピの信徒に対する命令と関係しています。まずパウロは、「キリストの福音にふさわしい生活をしなさい」(1章27節)と言い、それには「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦い・・・どんなことがあっても・・・たじろぐことがない」(1章27節b~28節a)生活をしなさいと命じています。そのために事をするにあたって「へりくだって、相手を自分よりも優れた者と考え」「自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と言います(2章3~4節)。そして「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と言われます。そうすれば清い者となり、神の子として輝き、命の言葉を保てるからです(2章14~16節)。 この命令をした後、意見を異にしていた二人の姉妹に対して、テモテやエパフロディトのようにパウロと「同じ思いを抱いて」いるくびきの友、戦友となりなさいと告げています。そしてくびきの友にはこれらの姉妹たちを支えてあげて下さいと告げました。このエボディアとシンティケがパウロと同じ事を考え、不和から転じてキリストを追い求めることに思いを定着するのを助けるようにと促しています。

適用

4章4節でパウロは言います、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。信徒たちが不和であってもなくても、喜ばなければなりませんでした。エボディアとシンティケが同じことを考えるためには、喜ぶことを学ぶ必要がありました。そのためにはどうすべきでしょうか。5節から7節に列記されたことを持つ事が秘訣です。第一は、広い心を持つ事です。それはイエス様のようにあわれみをもって人を取り扱うことです。第二は、思い煩うのをやめることです。心配はサタンからやって来て、信徒がキリストを生きる生活を妨げます。謙虚温柔さは神からくるもので、それは聖霊に委ねた生活の実りです。自分を無にし、奴隷のようにへりくだって生きられたイエス様に倣う生活です(2章7~8節)。第三は、祈りです。それは礼拝と交わりの要素を含んでおり、神の平安に満たされ、落ち着かせ、鎮め、同じ思いにあずかるのです。格別な主の復活の力にあずかり、苦しみに遭っても、喜びが湧き上がってくるのだとパウロは言います(3章10節)。


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