「聖徒の罪に対する神の対処」
序
罪を犯し、敗北した聖徒たちに対して神の対処はいかなるものなのでしょうか。
1人をつまずかせる者
イエスは、人をつまずかせるだけでなく、私たち自身をもつまずかせることは重大な事であると言います。そこで8節で「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい」と言います。「あなた」とは18章1節で質問した弟子たちのことです。これを文字通りにとる必要はないでしょう。もし手が盗みをし、足が悪の道を行くなら、すなわち罪と肉の欲にあるならば、対処せよと言うのです。「片手片足になっても命にあずかる方がよい」(8節)。聖徒たちは罪を犯し、その罪をいい加減に扱ってはならないのです。しかし自分の肉を吟味せず、永遠の地獄に投げ入れられる人もいます。ただこの刑罰を受けるのは永久にわたってではありません。
天の王国の時代だけです。 「片手片足を切り取られる」とはどういう意味でしょうか。片手片足でも罪を犯すことはできます。ですから切り落とすことが主の意図するところではありません。ですからこのみことばは、外側の体のことを指すのでなく、内側の肉を指すに違いありません。切り捨てなければならないのは、罪へと駆り立てるものです。 ほかにも同じ種類の言葉があります。
山上の垂訓と言われるマタイ5:21~22でも「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』・・・『愚か者』と言う者は・・・火の地獄に投げ込まれる」。イエスはこれを弟子たちに語られました。これは、兄弟たちを指して言われたのです。他の人たちが故意に私たちに恨みを抱いているなら、それはどうすることもできませんが、もし私たちが他の人をののしったり、恨んだりしたなら祭壇に供え物をする時、その兄弟のところへ行って、その問題を対処しなければならないのです(24節)。重要なのは和解することです(25節)。 天の王国に入ることができるのは、反目し合っていない人です。互いに愛し、あわれみを示す人です。反目し合うなら二人とも天の国から締め出されます。
王国では、すべての信徒は一つ心です。何らかの隔てがあってもならないのです。 しかしキリストを信じた人は永遠に滅びることはありません。しかし、悔い改めもせず、罪を告白しないなら、それは赦されず、火の地獄に投げ込まれます。マタイ5:25の「牢」に投げ込まれると言うのも、火の地獄であることは明らかです。 誰でも誘惑に遭うことはあります。主が対処されるのは、私たちの罪は、突然、サタンが汚れた思いを与えることによって肉が刺激されることにあるのではありません。私たちの罪は、サタンが一つの思いを与えた後、その誘惑を受け入れたことです。サタンが問題なのではありません。罪を誘導する原因をサタンはもたらすでしょうが、受け入れるのは私たち自身です。だからサタンに罪を転嫁することはできません。よって自分の罪に対して対処しなければならないのです。
2 焼かれること
ヘブライ6章4~6節で「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来たるべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません」。堕落した者は、クリスチャンです。彼は単数の「賜物」つまり、神の独り子を味わい、聖霊にあずかる者となったのです。「来たるべき世の力」とは、千年王国における力です。それは力のわざと奇跡と不思議で満ちています。そのような力ある人がつまずき、倒れるなら再び悔い改めるのは不可能です。そのような人は「茨やあざみを生えさせる人」で「役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます」(8節)。堕落した信徒は、無用な者となり、呪われ、地獄の火の苦しみを味わい、最後には焼かれてしまいます。しかしこの焼かれるのはしばらくの間だけで、茨とアザミを焼く尽くす間だけです。信徒は畑にたとえられます。良くない行為は茨とあざみです。取り除かれるのはそれらで畑自体ではありません。与えられた永遠の命は焼き尽くされることはありません。懲らしめを受けるとはこのようなことです。それは新天新地で主と共に住むために受ける地獄の火の刑罰です。特別な懲らしめをもって罪を清めるのですが、それは永遠に及ぶ火ではありません。。
適用
いったん救われたなら永遠に救われていると宣言できます。人が恵みにより救われた後は、二度と滅びることはありません。しかし王国においてどうであるかはその人の行いによって決定されるのです。