「唇の戸を守る祈り」
序
人の言葉は、生活の中で大きな部分を占め力を持っているので重要です。言葉はその人の心を表現しており、心の中に何があるかを表わしています。人が沈黙しているなら、誰もその霊を知ることはできないのですが、ひとたび語りだすならば、その言葉を通してその人の霊に触れることができます。主を信じた後は、基本的な語ることの訓練を受けねばならないのです。
1語り方と聞き方
言葉において、神を畏れることを学ぶ必要があります。語ることで正確さを身につけないと失敗します。うそをつくことはその一例です。不正確に語ることはうそをつくことであり、意図的に人に誤解を抱かせるのもうそをつくことです。言葉は正しいのですが、故意に別の方向に理解させるのもうそをつくことです。詩編141編3節は言います、「主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守って下さい」。このような祈りをする必要がありますので、「わたしたちの舌に見張りを置いて、わたしが軽々しく語ることがないようにしてください。わたしの耳に見張りを置いて、わたしが不注意に聞くことがないようにしてください」と祈る必要があります。もしこう祈るなら、多くの問題を避けることができるでしょう。ふさわしくない事柄に耳を貸し、それを拒絶しないなら、あらゆる毒が神の子たちの間に蔓延し、人に不敬虔、反逆、放縦をもたらすでしょう。
2 誠実な人になることを学ぶ
まず第一に、不正確な言葉を語らないということです。うそと不正確さは同根です。サタンはうその専門家です。物事をあいまいにし、あいまいに語り、不正確な事をもって人を惑わします。それが人を不誠実にします。私たちの多くは、好き嫌いを語るとしても、真実にそって語るのを好みません。善悪の判断も好き嫌いの判断と混同して語ることがあります。これは正常な事柄ではありません。私たちは主観的に語るのでなく、客観的に語るべきです。私たちは客観的裏付けの取れる事実に従って語り、自分がどのように感じているかということに従って語るべきではないのです。こうすれば誠実な人になれます。
第二に、無益な言葉を語らないことです(マタイ12章35~37節)。本当のことを事実であるならば何でも語ってよい、ということではありません。事実であるかが問題でない時もあります、あることは事実であり、確かにそうであるかもしれませんが、私たちの唇の実としてはならないこともあります。事実であっても、口にしてはならないこともあるのです。それは本当であるかどうかの問題ではなく、無益な言葉であるかどうかの問題です。すべての事実を語る必要はありません。無益な言葉を語る必要はありません(マタイ12章36節)。不正確な言葉を拒み、自分と関わりのない事柄について決して語るべきではありません。何の益をももたらさないからです。
第三に、悪い言葉を語らないことです。「悪い言葉」とは、ののしる言葉、のろう言葉です。Ⅰペテロ3章9節から11節は、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。・・『命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ・・』」と忠告しています。だらしない人は、言葉においてだらしない人です。愚かな話をする人は、行いにおいても愚かな人です。言葉においての不注意な人は、行いにおいても不注意な人です。箴言は言葉数を少なくせよと忠告しています、言葉を浪費してはなりません(箴言10章18~19節)。「上品な声を出すからといって信用するな、心には忌むべきことを持っている」(箴言26章25節)。よこしまな唇は人の霊を破滅させるのです。したがって聞きたがる欲望を拒絶することです。何でも聞く人の耳はゴミ箱です。米びつの中にごみを捨てる人はいません。みだらな言葉を受け入れるなら、あなたはゴミ箱になってしまいます。またヤコブ3章7節では「舌を制御できる人は一人もいません」と言います。人は神を賛美し、同じ舌で人をのろうのです。ですから祈り続け、聖霊の統治を受けなければならないのです。
適用
不正確に語らない、うそをつかない、無益な言葉を語らない、悪い言葉を語らない、唇を制御することに気を付けても舌を制御できる人はいません。罪を犯さないために注意すべきことは、それはまた秩序を守るべきです。混乱をもたらすような言葉は避けるべきです。時には何も聞こえない人のように、何も語れない人のように振る舞う必要もあります。そこで聖霊の管理を受けるには、秩序を守ることです。混乱をもたらすことが問題です。それを避ける言葉を語るべきです。主がなされるのを見守ることも大事です。それは主の行政に対する信頼がなければできません。静かに主がなされることを見るように祈りましょう。