「砕かれることを通して知る主の復活」
序
しばしば神は聖徒たちや教会さえも砕かれます。時には外部からの攻撃や迫害という形を取り、ある時は内部の論争や不一致という形を取られます。異邦人世界に福音を宣べ伝える使徒パウロは、アジアにいる者たちはすべて、彼から離れ去ったと告げたほどです(Ⅱテモテ1章15節)これは初代教会の頃より教会が荒廃していたことを見せています。それは天然のもの、つまり感情、興味、好み、欲望などをきよめるために神は砕かれるのです。
1主の砕き
神の砕きの下で、死にそうであると感じるかもしれませんが、その砕きは重すぎることも、軽すぎることもなくふるいにかけるように混合している天然の要素を選別し、砕かれます。私たちの動機、考え、目的、意志の中に自分自身でもわからない不純なものが混在しています。それをふるいにかけ不要な要素を粉砕しなければなりません。確かに私たちは一度救いを経験しますが、霊的な歩みをなして肉的な歩みをすぐにやめるわけではありません。繰り返し神は恵みを与え、次に砕かれます。この循環は繰り返し起こるものです。その過程で惨めさや、憂鬱を経験することが何度もあるのです。突然問題が持ち上がり、損失を被り、苦悩したりします。私たちにはこの過程が必要であることを覚えておかねばなりません。
2 死に環境の中で主を認識する
パウロは旅をするのに忙しい時ではなく、投獄され、拘束されていた時に『フィリピの信徒への手紙』を書きました。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(3章10~11節)。拘束されてはじめて、パウロはキリストの復活を知る必要を感じたのです。このときパウロはキリストの死の姿にあやかることによって復活を知ることを追い求めたのです。彼は死の環境の中へと入れられました。彼にとって獄は墓でした。彼はこの環境に耐えられなかったので、キリストを認識する必要がったのです。
3 主の復活の啓示
雅歌における主を追い求める娘の特別なビジョンを見て行きます。娘は愛する人が力と活力に満ちた方として見ています。愛する人がいる時、復活の力で満ちています。「恋しい人の声が聞こえます。山を越え、丘を跳んでやって来ます。恋しい人はかもしかのよう、若い雄鹿のようです」(雅歌2章8~9節a)。主は私たちにこのような特別な復活のビジョンを与えたいのです。主は十字架上で私たちの罪を担い、神によって見捨てられ、復活の中へと入って夜明けの雌鹿となられました(詩編22編の表題)。主は私たちに復活のビジョンを見せて召しておられます。それは復活の中で私たちが主と共に歩むためです。
復活するためには、「塵と死の中に打ち捨てられる」経験が必要です。パウロは霊的でしたが語句を含む多くの苦難を経験する必要がありました。獄の中、つまり束縛と制限の中に置かれることが私にもあります。落ち込んでいたり、霊が沈んでいたりするとき、広い意味で獄の中にいる経験です。この時、主の死と主の復活の血からを経験するのです。天然の要素を死に渡す霊的な殺し、砕きを通して、復活していくのです。
山々を越え、丘を跳びはねるビジョンをもって、パウロは獄の中に閉じ込められていました。したがって彼は獄の中にいながら繰り返し「喜ぶ」と言い、主において喜びなさいと告げました(フィリピ2章17~18節、4章4節)。パウロは超越していました。彼は地上の環境によって縛られていませんでした。このように東国の苦難にあっても復活の力を適用させる方法を知ることです。苦難は天然の要素を死に渡し、神のすべての霊的な要素を内側から生かし出しました。このようにくだかれることが主の復活を知る手段なのです。
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適用
私たちの教会がすぐに繁栄するのは希望的観測ですが、これを期待すべきではありません。これらは願っていることには違いありませんが、決して容易に実現するものではありません。私たちの常の経験は砕かれる経験だからです。訳もなく病気にかかったり、大事なものを紛失したり、いつになっても健康が回復しないかもしれません。これは確かにひどいことですが必要な過程であることを覚えていなければなりません。しかしパウロは獄の中で跳びはねていました。霊において束縛されずにいたのでした。よこでこう言いました、「生きるにも死ぬにも、私の身によって公然と崇められるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって生きるとはキリストであり」。彼がこう言い得たのは、復活のビジョン、啓示を持ったからです。私たちも一日に一回は主の死と復活の経験を持たねばなりません。多くのことは願いに反して悲しませ、落胆させます。これが私たちの道であり、成長するところであり、新エルサレムの生み出されるところです。こうして造り変えられるのです。このことを認識してつらい経験でも落胆せず、平安を持ち、喜ぶのです。