「神がおられるのを信じること」
序
信仰とは、神がおられるのを信じることです。それはキリストが私の中に生きておられることを信じるならば、信じるのは私ではなくキリストが信じることでもあります(ガラ2章20節)。神をとかしている時、誰がとかしているのでしょうか? あなたが髪をとかしている、「もはや私ではなくキリストです」と言えるでしょうか。多くの人にとって髪をとかしているのはキリストではなく、私自身です。もしキリストが髪をとかしておられるなら、主はあなたの方法に従って神をとかさないかもしれません。よってあなたが髪をとかす時、「もはや私ではなく、キリストです」と言うことができるべきです。こうしてあらゆることを行うのです。
1自分を捨てること
ある人が私のところに訪問に来たいと言われることがあります。その時こう祈ります、「主よ、いま人が私に会いに来られます。私はその人の要求に応じることができる者ではありません。主がその方です」。これが信仰であり、私は外にいるべきであると信じ、主が私の心の中にいるべきであると信じることです。イエスはこういわれました、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9章23節)。自分を捨てるとは、神がおられるのを信じることと等しいことです。これは神が言われた「私はある」を信じているからです。全宇宙で「私はあり」、私たちはみな無です。私たちは存在すべきではないのです。ただ主だけがあらゆるものであるべきなのです。ですからパウロは「私は十字架につけられた。生きているのはもはや私ではなく、キリストである」と言うのです。したがって、私はあらゆることで自己を否み、あらゆることで主に信頼すべきなのです。自己を否み、主に信頼することが信仰です。これが、神があるのを信じることなのです。
2 内側に生きているキリスト
使徒パウロがサウロであった時、彼はとても攻撃的な若者でした。彼にとってあらゆることが「私が、私に、私の、私を」でした。サウロにとって、「初めに私が、次に私の、私のもの、最後に私に」でした。あらゆることが、タルソのサウロでした。しかし主イエスは彼をダマスコ途上で道に倒され、サウロは「主よ、あなたはどなたですか?」と尋ねました(使徒9章5節)。主は「私はイエスである」と言われました(5節)。主は言っておられました、「私は大いなる『私はある』である。私は存在する者である。私があって、あなたはないことを、あなたは信じなければならない」。やがて、サウロは名前を変えました。サウロは終わり、パウロが出てきました(使徒13章9節)。このパウロは私たちに「生きているのはもはや私ではない。キリストが私の内に生きていおられるのです」と言った者です。これが、「神はある、神は生きていられる」ということを信じることです。
3聖霊の内住の信仰
神が満足するのはただ一つのことです。それは聖霊内住の信仰です。信仰は「神は生きておられる、神はおられる」ことを信じることです。では皆さんにお尋ねします、「ただ神だけがおられるなら、皆さんはどこにおられるのでしょうか?」。クリスチャンの皆さんは、主イエスと共に葬られ、共によみがえられたのではありませんか? それならばみなさんがなすべきわざはいまだに何かあるのでしょうか? 栄光は神に! もう一度お尋ねします、皆さんはどこにおられますか? 皆さんは墓の中におられるのではないでしょうか。今日、皆さんは誰でしょうか? 皆さんは言う必要があります。「もはや私ではなくキリストです」と。私たちの内側には天から命を与える霊が注がれ、聖霊が満ち満ちています。それは復活されたキリストの霊です。それは神性と人性を経験した完成された神の栄光が満ち満ちている霊の充満です。これが聖霊です。三位一体の神の完成された実態は聖霊によって表現されています。もはや古い性質、天然の性質を生きるのでなく新しい罪のない性質を生きる、復活を生きるのを可能とするのが聖霊と命の法則です。この聖霊の神には不可能はなく、私たちを導き、行くべき道を示し、神の国へと誘ってくださいます。
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適用
私たちが何も持たず、無であり、ただ栄光の中の生けるキリストだけを見ることができるなら何という喜びでしょう。これが信仰です。よって私たちは内側に真に全能の御業をなす神が生きていることを信じ、信頼し、委ね切るものでありたいものです。