「信仰者の罪への神の対処」
序
1 訓練の動機と目的
訓練の動機=神の愛(黙3章19節)、対象=神の子たち(ヘブル12章7~8節)、訓練の目的(ヘブル12章10節) 神の聖に与らせるため、聖さが現れれば、神の訓練、懲らしめは止むのである。よって主の訓練は私たち神のものであることの証明である。
2刑罰と訓練の違い
神の懲らしめでも刑罰ではなく、訓練である。それは神の聖さに与り、愚かな生活を送らないため。たとえ倒され、敗北してもクリスチャンは永遠に滅びることなく、永遠の命を失うこともないが、神の懲らしめは受けることもある。もしクリスチャンが肉の欲をほしいままにして、罪を犯し、汚れに陥り、神の聖に与らないなら神は、その人の環境、家庭、健康、奨励の計画を通して、その人を訓練し、家庭での困難な問題、多くの病、不幸を環境の中で経験させることもある。これらは罰することではなく、神の聖に与らせ、神の召しの恵みを受けるにふさわしくするためである。
実例・アナニヤとサッピラ、彼らは信者であり、救われていたが聖霊を欺く罪を犯したため、厳しい裁きを受けた(使徒5章1~10節)。・主の食卓を軽んじたコリントの信者たち 彼らは訓練を受け、弱くされ、病気を受け、ついには死に至った者もいたように懲らしめを受けた(Ⅰコリ11章29~30節)。それは将来罪に定められることから救われるため(Ⅰコリ11章32節)。こうして神は、私たちが罪を犯し、滅びることがないように勝手気ままになることから守られるのである。・神の訓練は救われていることの証明 Ⅰコリ5章 義母との不品行をなした信者、パウロは、その者の体の肉を破壊させるためにサタンに渡し、その人の力を弱めさせ、病気にさせ、ついには死にさえ至らせることを許した。それは将来の主の日に救われるためであった。訓練は、現在の生涯のためにあり、永遠の未来の救いに関係しているのではない。そんな人であっても決して永遠の滅びの刑罰を受けるのではない。これがパウロの教え。・「死に至る罪を犯した信徒たちのために祈るべきではないのか?」(Ⅰヨハネ5章16節)、これは死刑に値するような罪を犯した信徒に対して語っている。肉体の死であり、霊の死とは無関係である。
3 褒賞と賜物の違い
信者は、神の恵みによって無代価でキリストを与えられ、救われました。褒賞は、救われた後、聖霊との間の関係が褒賞を得させ一つの道の上に置かれる。その結果走るべき競争を走り、前に置かれている褒賞を得るのだ。日々肉の歩みを離れ、霊の歩みをして、キリストの勝利を現す生活を義務付けられている。神はこの世の人の前には、キリストを信じる時「賜物」(永遠の命、ローマ6章23節)を受け、キリストに従う信徒の前には「褒賞」を置かれている。
賜物(罪の赦し)は、信仰を通して得られ、褒賞は忠実で聖なる生活をする信徒に与えられるものである。したがって、救われた後の信徒の生活は倫理的においても律義なものでなければならない。これが「ホーリネスの生活」(聖潔の生活)と呼ぶ。主イエスを信じ、救われた後、褒賞(冠、王座、天の王国・マタイ5章11〜12節)が用意されてあるが、それを得るにはみことばに忠実な信仰生活をすることが条件である。救いに関しては善良な行いは、無益で、良い行いによって救われるのではないし、悪い行いがあったとしても救われない訳ではないが、救われた後、褒賞を得るにはみことばに忠実で良い行いを生み出すことに努めねばならないのである。神は永遠の命を持つ者と罪に定められている人とを区別する。同様に、神の子たちを従順な子たちと不従順な子たちとに分け、褒賞を与えるかどうかを決められる。
褒賞は働きに従って決められる(ローマ4章4節、黙2章23節)。「誰かがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けます」(Ⅰコリ3章14節)。褒賞は人の働きにかかわっている。良い働きは求められる。「あなたがたは敵を愛しなさい。人の善い事をし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすればたくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。」(ルカ6章35節)。敵を愛することも当てにしないで人に金を貸すことも人の行いで、行為である。そうすれば救われ、永遠の命が得るとはないが、そうすれば褒賞は大きい。褒賞は行いからであって、信仰から受けるものではないのである。
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適用
「銅細工人アレキサンデル」は信徒であったがパウロに対して罪を犯し苦しめた(Ⅱテモテ4章14節)、パウロは「主はその仕業に応じて報いる」と告げている。第一に、人は行いに従って報いられる、第二に、その報いはキリストが再臨される時に得る、第三に、冠と王座を得ること、それは神の王国の権威の象徴。アレキサンデルは、褒賞は受けず損失を受けるのである。