top of page

「神の国のことと聖霊」

イエスは神の務めを果たされました。その務めはキリストの三職によって知ることができます。それは王職、祭司職、預言者職を以って神の国を完成することです。この務めは、十字架で完了され(ヨハネ19章30節)、復活され、天に昇る迄の40日間、弟子たちに語られました(使徒1章3節)。この務めこそ地上の教会の存立目的でした。

1 「神の国のこと」とは

イエスが十字架で死なれ、復活された目的は、人々をサタンを打ち滅ぼし、その囚われから解放する「真の王」として(コロ1章13節、へブ2章14節、Ⅰヨハネ3章8節)、原罪と故意の罪から解放するために「真の祭司」としてすべての罪を赦し(へブ9章12節)、神に出会う道を開き、死から命を与える「真の預言者」として、死の問題を解決されることでした(ヨハネ5書24節、11章25節、14章6節、Ⅰヨハネ5章11~12節)。

このキリストの三職は、弟子たちに委託しました。そしてあらゆる国の人々を弟子とし(マタイ28章19節)、サタンの力を主の十字架により奪いました。主を信じる者には蛇であるサタンに接触しても、決して害を受けず、悪霊どもの妨害にも対抗できる力が与えられるとイエスは弟子たちに告げたのです。人間の悲惨さの物語も、神の物語に結合されるとき、神の癒しが与えられるのです。このことを宣言することこそ、伝道であり神の国の使命なのです。そしてすべてのキリスト者(教会)に委託された使命が三つの務めであったのです。

2 教会の務め

この神の国のことは、キリストが教会を通してなされます。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(Ⅰペトロ2章9節)。この世が神の国になるためには、主から与えられた万民王、万民祭司、万民預言者である、この務めの大切さを知るとき教会の力が回復し、リバイバルが起こり、偶像宗教で満ちた日本が軌道変更してキリストを受け入れる国になるのです。キリストとはメシヤ、つまり「油注がれた者」であり、聖霊の油を注がれたものという意味でもあり、イエスは聖霊の注ぎを受け公生涯に入られました。同じく教会が委託を受けた神の国のことをなすには聖霊の満たしを受ける必要があります。よって私たちは聖霊を受け、満たされ、導かれる者でなければなりません。使徒たちとは、聖霊のみによって神の国のことをなしました。聖霊の主な働きは、神の国のことをなす事だからです。

3最高の務め

私たちは罪の赦しをなす愛の業で満たされる「祭司」の務めに終わるだけでなく、王権を以って暗闇のサタンや悪霊と戦う王的生活をなし、絶えずキリストが彼らを統治していることを宣言しなければならないのです。キリストがあなたがたの生活を統治し、王様のような権威ある生活を以って聖なる生活をなさねばならないのです。そして絶えずみことばを宣べ伝え、死から命へと移されていること、永遠の命を生きていることを宣言することが最高の務めとして委託されているのです。イエスは「わたしはまことのぶどうの木、・・わたしに繋がっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(ヨハネ15章1節)と言われ、「わたしに繋がっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて焼かれてしまう」(6節)と言われました。

私たちはみな罪人で、切られて焼かれてしまうぶどうの枝でした。よってそのダメな役に立たない枝のためにキリストは身代わりとなって十字架にかかり、肥やしとなって実を結ぶ者としてくださったのです。教会からダメな人、やっかいな人を追い出すのでなくそれを神に委ねて、ただ私たちは罪を赦し、愛を尽くす生活に徹せるようキリストのみことばに従う生活する忍耐を学ぶことです。その時、教会は回復し、私たちは王として、教会を治めることができるようになるでしょう。罪を犯す人に対する神の懲らしめはありますが、一度救われた人は決して滅びることはありません。聖霊の「助け主・弁護者」が父なる神に向かって、十字架の効力を無効にしないよう訴えるからです。

適用

旧約時代、イスラエルの王や祭司、預言者が正しい働きをするときに、平和と神の祝福が臨みました。しかしこの三職は果たされなかったとき、神殿は破壊され、バビロン捕囚となったのです。

キリストの三職が私たち信徒を通して適切に機能するとき、国家と時代が祝福されるのです。国家の命運は、政治家によるのではなく、神の国のことを委託された教会にかかっているのです。日本の教会がみことばに徹底し、罪の赦しをもって愛を実行し、人を裁かず、責めず、執り成す者でありたいものです。


最近の説教
bottom of page