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「天地創造」

聖書の最初には天地創造の記述があり、「初めに、神が天と地を創造された」(創1章1節)とあります。ここに4つの重要な言葉が見られます、「初めに」、「神」、「天と地」、「創造」という単語です.

1「初めに」

これは神による時間の創造を指します。これは神が時間の主人公であり、時間があると言うことは空間もあると言うことです。これらが組み合わされるとき、それを歴史と呼びます。私たちは歴史の中に存在し、時間と空間に根差して生きています。この時間と空間を人間が使うなら「人間の歴史」となり、神が使うなら「神の歴史」となります。よって一般の歴史と聖書の歴史とは異なります。

それは神の歴史だからです。人間の歴史はむなしい営みの繰り返しですが、同じ時間であっても、神の歴史には意味があり、祝福があります。この人間の歴史が神の歴史として用いられるなら、それは救いの歴史となります。そして、その人が立っている空間が、神の支配する天国になります。しかしどんなに良い環境で、お金があったとしても、人間の時間と空間の中で生きているなら、不平とつぶやくばかりが口をつき、絶えず闇の中へと引きずり込まれてしまいます。神の向う時間と空間の中に、自らを委ねるなら不思議な希望と喜びが訪れるのです。人間の時間と神の時間とはこのように天と地ほどの差があるのです。したがって神の時間に入ることです。

2 「神」

創世記1章には、神と言う言葉が30回出てきます。多くの人は人生の主事が自分だと考えています。その場合、人生は可能性よりも不可能が多くなります。希望よりも絶望の方が多くなります。天地万物は神が創造されたと聖書にあります。それは神が主人だと言う意味です。神が中心者であれば無限の可能性が満ちてきます。宇宙の法則は、数学的な美しさを持ちつつ、宇宙は秩序正しく広がっています。「宇」とは空間であり、「宙」とは時間で、宇宙とは、時間と空間のすべてでありという意味です(『淮南子』(えなんじ)。この宇宙の背後に存在する超越者は、偉大なる建築家でもあります。創造者なる神を信じることは、非科学的なことでも非常識な事でもなく、きわめて理にかなったことであり、人間として自然な事なのです。

実に宇宙は「無」から「有」を生じさせる力を持つ全能の神(ローマ4章17節)によりその遠大な御計画のものに創造された、と信じられます。創世記を見ると天地万物を創造された方は人間でなく神だとあります。光も神が造られたのであり、闇をも取り去ることができるのは神だけです。理性と合理性は過去を解釈するにはよいのですが、未来を生み出すものではありません。私たちに必要なのは、神の奇跡です。

3 「天と地」

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5章17節)というみことばにおいて、三つの答えを得ます。 第一は、「だれでも」です。善人も悪人も、金持ちも貧しき者も、国籍が異なっても、だれでも、イエスを信じたら重い罪の石の塊は粉砕され、神の子どもへと変えられます。

第二に、「キリストに結ばれる人」という条件です。イエス・キリストは人の罪を赦しために来られ、十字架と言う代価が支払われました。 第三に、「新しく創造された者」となることです。十字架と復活・昇天の後、復活の主イエスは「命を与える霊」となって(Ⅰコリント15章45節)私たちの内側に注ぎ込まれました。これが「聖霊の内住」です。この聖霊の導きにたえず従うなら私たちは「新しき人」になります。そのとき新しい光が射し込み、呪いと憎しみは消え去り、愛と赦しが生まれて来ます。重い石の塊は一つ、二つと粉砕され、魂(思い・感情・意志)の停止していた機能も肉体の停止していた機能も回復し、癒されるようになります。

4 「創造」

創造とは、無から有を造ったと言う意味です。神が人間を造られたので、主人だと言うことです。私たちが持っているものは命をも含めてすべて委託されたものであり、管理を任されているだけのものです。ですから、機械が故障すれば、その機会を作った人に上手に直してもらうように、人生の問題が生じたなら、人間を造られた神のものに立ち返ることです。

適用

私たちは神を拒絶せず、心の中に受け入れなければなりません。そうすれば神はより多くの祝福を私たちに現してくださいます。私たちはこの世に生まれたことを喜ぶべきです。人生は美しいものです。生きる価値のあるものです。天を見上げてください。過去を見ずに未来を見てください。人生に原初の光が射し込むでしょう。それはイエスという光です。主イエスが私たちを治め、人生の光となるようにお祈りします。


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