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「見よ、すべてが新しくなった」

イエス様を信じ、新しい人になれば、暗闇は過ぎ去り、新しい光が射しこみます。真っ暗な夜のような心の中に光が照らします。

1わたしたちの中の罪

ニュースを見ていると自殺と殺人が頻繁に起きています。自分を殺すか、人を殺すかです。それは自分の内面に、手に負えない怒りや絶望があるからです。ここで重要な聖書のみことばがあります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5章17節)。 人が神を信じないで、背を向けた結果、人は神によって見捨てられます。人が神を見捨てることによって、神はその人を見捨てざるを得ないのです。ローマ1章26~27節で、神は人を三つの事柄に渡されます。不潔と恥ずべき激情、認めようとしない思いです。そのような見捨てられた結果は、淫行です。 私たち人間の心の中には、恥ずべき情欲があります。この情欲のために、数多くの罪を犯します。深刻なのはこの心で犯す罪です。この肉の思いを殺さなければなりません。この肉の欲を殺さない限り、私たちは生き返るのです。私たちを死へと追いやり、人を殺すのも、私たちの中に残っている恥ずべき情欲です。それはもはや、他人の問題ではありません。

2 神の懲らしめ

神を無視し、不平不満を言っている人の心を、神はそのままにしておかれます。それは〈無関心〉です。罪と言う重い石を背負いながら歩いていくと、制御不能な歩みになってしまいます。これが〈肉の歩み〉(ローマ8章5節)で、その結果は、敗北と死です。「ローマの信徒への手紙」1章を見ると、罪がどのように発展して、変質していくかが記されています。「悪と罪、むさぼりと憎しみ、ねたみと殺意、争いと偽り、非情と陰口、悪口(そしり)、神への敵視、横柄、高慢、大ぼらを吹き、悪事を重ね、親に反抗し、わきまえもなく、平気で約束を破り、情け知らずで不親切」に発展しています。これらは重い石の塊ですが、神はひとり子イエス・キリストを遣わされ、十字架に架けられ、流された血によって、私たちの中にある重い石の塊を粉砕して下さるのです。どんな善良に見える人の内面にも罪の塊があります。しかしキリストに結ばれれば、リバイバルが与えられるのです。

3 新しい人になる喜び

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5章17節)というみことばにおいて、三つの答えを得ます。 第一は、「だれでも」です。善人も悪人も、金持ちも貧しき者も、国籍が異なっても、だれでも、イエスを信じたら重い罪の石の塊は粉砕され、神の子どもへと変えられます。

第二に、「キリストに結ばれる人」という条件です。イエス・キリストは人の罪を赦しために来られ、十字架と言う代価が支払われました。 第三に、「新しく創造された者」となることです。十字架と復活・昇天の後、復活の主イエスは「命を与える霊」となって(Ⅰコリント15章45節)私たちの内側に注ぎ込まれました。これが「聖霊の内住」です。この聖霊の導きにたえず従うなら私たちは「新しき人」になります。そのとき新しい光が射し込み、呪いと憎しみは消え去り、愛と赦しが生まれて来ます。重い石の塊は一つ、二つと粉砕され、魂(思い・感情・意志)の停止していた機能も肉体の停止していた機能も回復し、癒されるようになります。。

適用

主のみことばをまず受け入れ、キリストに結ばれ、光へと進み、暗闇にとどまらないように決断して行きましょう。


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