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「信仰、希望、愛」

パウロはこう言います、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13章13節)。信仰と希望と愛は魂のサプリメントです。信仰のためには行いが必要です。愛のためには労苦が必要です。希望のためには忍耐が必要です。パウロはこう言います、「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス·キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(Ⅰテサロニケ1章3節)。

1 信仰は神からの贈り物

理性よりも大事なものは信仰です。理性で解決しない問題も、信仰によって解決します。長血を患っていた女は信仰によって癒されました(マルコ5章34節)。

 悪霊にとらわれていた子どもも信仰によって救われました(マルコ9章23節)。聖書の教えでは信仰を最高の価値として見ています。信仰によって一切のことが解決するからです。さらに驚くべきことは信仰によって聖霊を受けるのです。信仰が起こると真の神がわかり、霊的な世界の動きがわかります。聖書もわかります。侵攻は理性を超越するからです。多くのこの世の人が生きる原理は理性であり合理性ですが、真の神を信じる人は信仰をより高く評価する人です。

 その信仰は簡単にはつかめません。祈っても、善い事しても、断食をしても、信仰は生まれるものではありません。信仰は賜物、神からの贈り物だからです。

 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェソ2章8節)とあります。

イエスを救い主として受け入れるなら二つの賜物が与えられます。聖霊と信仰です。それには口で告白しなければなりません。そうすれば聖霊が臨在され、信仰が生じてきます。聖書について目が開き、神が見えてき、心が平安になり、喜びで満たされ、不安と思い煩いが消え去り、想像もできなかった霊的な力が生じます。不可能を可能に変える勇気が湧いてきます。救いの確信のなかった人が確信を持つようになります。死が訪れても、不治の病にかかっても、事業が失敗しても、決して動揺しなくなります。それらが偶然に起きたのでなく、神の必然、神の摂理、神の御計画によって引き起こされているのを知るからです。信仰があれば、これら神のなした業を受け入れることができるからです。全能なる神は必要ならばこれらの事態をすぐにでも解決してくれるお方だからです。イエスを受け入れると、信仰が作動し出し、奇跡を生み出すのです。そして賛美があふれます。これが信仰です

2 信仰によって生まれるビジョン(展望)

 信仰に取る将来の夢が生じます。これを「希望」と呼びます。希望は神の夢です。私たちの夢(ビジョン)はしばしば挫折しますが、信仰の伴った夢は神の夢(ビジョン)です。

 「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(使徒2章18節)。

 肉の夢、ビジョンは妄想を生み、絶望の中をさまよわせますが、主の復活の命の霊である聖霊の夢(ビジョン)を抱く者には想像もできなかった出来事が起こります。神の夢を抱く人には未来があります。新しい天と新しい地の夢を抱くからです。それには復活を生きることです。

3 信仰によって愛が生じる

 信仰によって生じた夢は、愛を生みます。神の夢は、神の本性である「愛」の実現です。神は愛である、と聖書は告げます。その愛は十字架愛、贖罪愛、聖霊愛です。ご聖霊は、神ご自身ですから、ご聖霊の満ちるところに愛と喜びが満ちるのです。そのとき憂鬱も苦しみも絶望も消え去り、呪いも劣等感も貧しさも消え去り、天国の喜びが始まります。そして神の子どもとしての喜びで満たされ、人を愛することができるように変えられます。それにはイエス・キリストを受け入れることです。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1章12節)。とあるからです。。

適用

イエスを受け入れるなら、神の子どもとされます。すべての罪が赦され、神の愛されるものとして受け入れられるのです。イエスの前にひざまずきましょう。そのお方に手を上げて降参しましたと表明して礼拝をささげるのです。その瞬間、信仰によって聖霊の業が始まり、わたしたちを祝福の生活へと導いて下さるのです。主イエス様を心の中に受け入れ、お迎えし、すべての罪を赦していただきましょう。


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