「木の上に上ったザアカイ」
序
ザアカイと言う人がエリコと言う村におりました。彼は税務署長であり、権力と富を持っていました。人間的には幸福な人のはずなのに、彼の心にはむなしさが宿っておりました。いくら哲学や宗教に頼ってもむなしさは日々大きくなるだけでした。そんなある時、イエスという人がその村にやってくるという噂を聞いたのです。その時、ザアカイのとった態度はいかなるものであったでしょうか。
1 ザアカイの出会いによる変化
ザアカイは心のむなしさをこのイエスという人が解決してくれるかもしれないと期待を以って近づいてみようと考えたのです。背が低かったので群衆に取り囲まれているイエス様を見ることができません。そこで恥も外聞も捨てて、彼は木の上に上りました。そのとき彼はイエス様に出会ったのです。彼にはどのような変化が起きたでしょうか?
1-1 第一に大切なことは、イエス様に出会いたいと言う志です。ザアカイには熱い思いがあり、目的のためには一直線で突き進む強い意志があったからこそ出会うことができたのです。あきらめてはならないのです。まず祈ることです。自分の渇きを知ることです。出会うための方法が見つけられます。
1-2 第二に方法です。ザアカイは群衆を見てもひるむことなく、走って先回りしていちじく桑の木の上に上ってみようと考えました。群衆は出会いを妨げたのですが、彼はそれを跳ね除けました。私たちにとっての障壁は、人の思考の中にあります。哲学や思想が、霊の耳を惑わします、情欲が霊の目をくらませます。人の知恵が、神の知恵を上回ることなどあり得ないことに気づかなければなりません。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとって愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(一コリント1章18節)。十字架と復活は、人間の理性や知識で理解できるものではありません。十字架の木の上に上ってこそ、見えてくるものであり、そこに神様の知恵と判断力を見出すことができるのです。
1-3 第三に、正しい対象を見ることです。木に上ったザアカイが見たイエス様はどのような方だったのでしょうか。イエスはその木の場所に来ると、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まりたい」と告げました。
2 ザアカイが見たイエス様
2-1 罪を赦すお方 イエス様は、ザアカイの名前を呼ばれました。彼の名を呼ぶと言うことはその人に対する特別な思いです。ザアカイは税務署長として貧しい人からも権力を振るって税金を取り立て、金持ちになっていた罪深い人でした。イエス様はそのような彼を迎えて下さったのです。そんなザアカイの家に行って泊まりたいと告げたのです。これはイエス様が罪を赦して下さる方で、愛をもって接して下さる方であったことを示しています。
2-2 癒すお方 イエス様はザアカイを受け入れて下さったので、彼の心のむなしさは満たされ、悲しみは癒されました。ザアカイはイエス様に癒す力のあるお方、神様を見たのです。そこで彼は造り変えられ、貧しい人たちに施しをする思いで満たされました。
2-3 悪霊を追い払うお方 イエス様はザアカイに憑りついていた悪霊を追い払われました。ユダヤ人であるにも関わらずローマの手先となり徴税人として働き、こころはいつも後ろ髪をひかれる思いでいたのです。彼のこころは背が低いだけでなく、そんなユダヤ人であるにもかかわらず同胞を痛い目に合わせている自分が嫌でたまりませんでした。これは彼に憑りついた悪霊でしたが、イエス様はこれらを追い出し、同胞に対して優しい思いで満たしました。
2-4 祝福するお方 最後に、ザアカイは祝福をくださるイエス様を見出したのです。十字架の木に上る人は誰でも、本当の人生が見えて来ます。そして人生が変わるのです。
適用
イエス様に出会ったザアカイは自発的に「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かをだまし取っていたなら、それを四倍にして返します。」と宣言しました。彼の家に救いが訪れ、天国が現されたからです。天国の実は、愛、喜び、平和、寛容、善意、忠実、柔和、自制です(ガラテヤ5章22~23節)。神様の命、復活の命、聖霊様が満ちているところが天国です。十字架の上の木の上に上り、神の国と神の義を追い求める皆さんでありますように、主の御名によってお祈りいたします。