「救われた後の罪は赦されるのか」
序
ペテロたちイエスの弟子たちの幾人かは十字架につけられたイエスを裏切りました。人は主イエスを信じた後、過去のすべての罪は主の贖いのみわざによって赦されます。よって大胆に主イエスを救い主として信じることです。しかし、信じた後、裏切ったり、怒鳴ったり、盗んだりして罪を犯したらどうなのでしょうか。クリスチャンとなっても、罪を犯すことは避けられないことかもしれません。ではこれらの罪はどう対処されるのでしょうか
1 赦しの根拠
救われる以前に犯したすべての罪は、主イエスの血によって洗い清められました。しかし、救われた後に犯した罪はどうなるのでしょうか? 『ヨハネの手紙一』では罪を犯したクリスチャンについて取り扱っています。「たとえ罪を犯しても」と言います(2章1節)。もしクリスチャンが罪を犯したら、どうすべきでしょうか? ヨハネは続けてこう言います、「御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」。これは、救われた人、神の子どもとなった人の中で誰かが罪を犯すなら御父のもとにある弁護者を持っていると言うのです。
「弁護者」とは原文で「パラクレートス」です。「パラ」とは「並んで」という意味です。「クレートス」とは助け手を意味します。よって「パラクレートス」とは、「傍にいて助けてくれる人」の意味です。弁護士のようにあなたに代わって代弁してくれる助け手です。しかし単に恩恵を与えるのではりません。「正しい方」なので罪を不当に赦すのではありません。罪を見ない振りをするのでもありません。 ではどのように弁護者はわたしたちを弁護されるのでしょうか? それは主イエスご自身が十字架上でなし遂げられた贖いの御業にゆえに、神は罪を犯したクリスチャンを赦さなければならないと、神に向かわれるからです。この種の償いのいけにえは、過去の罪だけでなく、現在と未来の罪のすべてを含んでいるからです。
2 あらゆる罪の赦し
「救い主」としてのイエスの御業は罪人のためのものです。「弁護者」としてのイエスの御業はクリスチャンのためのものです。クリスチャンの罪は、十字架の贖いに基づく弁護によって赦されます。この弁護は十字架の御業を神に提示します。それは主イエスが何をなしたかを神に示すので、神はその人を罪に罰することができないのです。わたしたちには神の前に弁護者がおり、その方の死が神の御前にあります。主イエスはすべての罪人の救い主となられたように、罪を犯すすべてのクリスチャンの弁護者となられました。
わたしたちが悔い改めたので、弁護者と成ったのでなく、罪を犯している間でも弁護者であったのです。その瞬間、イエスは十字架の御業を神に示されるや、神はあなたの罪を赦さない訳にはいかないのです。そこで悔い改め、告白へと導かれます。今や「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(『ヨハネの手紙一)1章7節b)。原文では、この節は、御子イエスの血が絶えずあらゆる罪から清め続けていられる、と言っているのです。清めが繰り返されるのではありません。ただ継続的に永遠の清めがあるだけです。これが聖書の真理です。神の御子の血がわたしたちの罪を絶えず清めることは、弁護者の働きです。主の十字架の血の効力は絶えることはありません。
3 告白による赦し
しかしもしクリスチャンが故意に続けて罪を犯し、悔い改めることをしないならば主の血の働きと効力を失います。キリストの清める御業は絶えず継続的ですが、この御業が信者の上にどう実現されるかは別問題です。『ヨハネの手紙一』1章9節はこう言います、「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。告白が赦しではありません。これが正しければ、人のものを盗んでも、告白し、再び盗んでも告白さえすれば赦されることになります。これは正しいことではありません。
罪をいい加減にすることだからです。そうであったら「神は真実で正しい方」(9節)とは決して言わなかったはずです。 では「告白」とは何でしょうか?神の赦しを求めて多く祈ることではありません。使徒ヨハネが言うのは、告白とは、罪を認め、罪を罪として対処することです。赦しの懇願ではなく、罪を罪として認めることです。そうすればその罪とすべての不義を赦してくださると言うのです。神が罪と言われる時、わたしもまたそれを罪と認めることです。間違っていると神が言うなら、そうだと認めることです。ただ罪を告白したら赦されるのではありません。神はイエスの御業のゆえに赦されるのです。
適用
赦しは、主の血による告白を通してもたらされます。もし告白しないなら、神の愛が実現しません。むしろ懲らしめが与えられるのです。ですから主と共に絶えず歩み、主イエスの御旨にしたがい、アーメンと唱える生活をして祝福の生活が続くようにお祈りしましょう