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「エルサレムにとどまりなさい 」

イエスは十字架にかかり、その後、復活したことを多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日間にわたって彼らに現れ、神の国について話されました。ある日の食事時、弟子たちに「エルサレムか離れず、父の約束されたものを待ちなさい、そうすれば聖霊による洗礼を授けられる」と告げられました。それによって大いなる宣教の力が与えられるからです。 当時の社会でも今日でも同じですが精神的、肉体的、生活的、社会的障害に陥った暮らしをする人は多くおりました。それを解決するために、制度を改めたり、ありとあらゆる工夫をしてきましたが、かえって社会は混乱の深みにはまっています。

なぜこれらの障害から逃れられないのでしょうか? それは背後に悪霊が存在し、それを追い出さない限り、解決しないことを悟らなければなりません。 多くの人はコンプレックスを抱えています。それは過去に抱いた劣等感や挫折感、人から裏切られた背信感などが潜在意識の中で複合体となしたことを意味します。妬みや嫉みもコンプレックスの一形態です。

コンプレックスとは心理学的表現ですが、霊的表現をすれば「悪霊」と言うことです。これら悪霊の憑依現象は、信仰に至らずに解決することはできません。最善の治療法は、キリストが宣べ伝えられることにより、キリストを受容し、満たされることによって解放されることです。キリストは、一切の必要を満たしてくれるお方です。パンであり、命であり、光であり、豊かさです。そのためにどうすべきでしょうか?

第一に、復活の命である聖霊の満たし、聖霊の洗礼を受けなければなりません。出かける前にじっと耐えて聖霊の満たしと導きを得るまで、エルサレムにとどまっていなければならないのです。

第二に、明白な新生の体験です。弟子たちは主イエスが十字架にかかって殺されたので、次は自分の番ではないかと恐れていました。恐れや不安から解放される体験が必要でした。彼らには死の恐れと懲らしめの恐れがありました。彼らには愛が必要でした。なぜなら「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰が伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(Ⅰヨハネ4章18節)。イエス・キリストを受け入れ、神の御前に出るとき、初めてこの恐れから解放されます。独り子を賜ったほどに私たちを愛して下さった神が万物を私たちに与えてくださらないはずはないからです。一切の罪から赦されている、罪責感からも解

放されていることの新生の体験がどうしても必要です。放されていることの新生の体験がどうしても必要です。

第二に、明白な新生の体験です。弟子たちは主イエスが十字架にかかって殺されたので、次は自分の番ではないかと恐れていました。恐れや不安から解放される体験が必要でした。彼らには死の恐れと懲らしめの恐れがありました。彼らには愛が必要でした。なぜなら「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰が伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(Ⅰヨハネ4章18節)。イエス・キリストを受け入れ、神の御前に出るとき、初めてこの恐れから解放されます。独り子を賜ったほどに私たちを愛して下さった神が万物を私たちに与えてくださらないはずはないからです。一切の罪から赦されている、罪責感からも解放されていることの新生の体験がどうしても必要です。放されていることの新生の体験がどうしても必要です。

第三に、聖霊充満の体験をするとコンプレックス、つまり、悪霊から解放されます。弟子たちは恐怖のあまり逃げ出し、ペトロに至っては「イエス様を知らない」と三度も否定しました。彼らの味わった罪責感、挫折感、虚脱感は論じるまでもありません。その後、彼らはエルサレムにとどまり祈っていました。その時、聖霊が天から注ぎ出し、彼らの内なる霊が聖霊で満たされ、大胆に出て行って、みことばを宣べ伝える「使徒」となりました。内的充足が、外的悲劇を駆逐し、弟子たちの人生と運命を変えたのです。

適用

イその後、彼らにはどんな不況がやって来ても豊かになりました。祈りが、聖霊の満たしをもたらし、一致して物事を行え、呪いの人生が祝福に変えられたのです。すべての悪であるコンプレックスを追い払い、リバイバルの力を得ましょう。


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