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「霊に感じた祈り」

霊に感じた祈りは人を救います。多く語るよりも、神の霊の流れを感じ取る時、人の霊の流れを感じ取れ、人を動かすことができます。

1 滅亡の光景

神は罪に染まったソドムとゴモラとその住民を滅ぼされました。そこはとても栄えた町で、貿易、文明、教育なども進歩していましたが、神は一度にこれを滅ぼし、ソドムとゴモラの町は跡形もなくなってしまいました。死海の底に消えてしまったのです。その罪のために怒りの手が下って、だれもみな逃れる道はありませんでした。これは来たるべき世の終わりの日の模型です。主イエスはルカ福音書17章で世の終わりの日の有様を「ロトの時代にも同じことが起こった」(28節)と言われ、「人の子が現れる日にも、同じことが起こる」(30節)と語られました。その町には善良な人も、敬虔な人もいたはずです。にもかかわらずこれらの人も救いにあずかることなく滅ぼされたのです。いま神の怒りは近づいていますが、人々はそれに少しも気づいていません。気づかずに商売や家造りに励んでいます。

  神はヨハネの目を通して、終わりの日の有様をお見せになりました。ヨハネ黙示録20章11節~14節には、命の書に名が記されていない人は、火の池に投げ込まれたとあります。このことは、Ⅱテサロニケ1章7~9節で、主イエスが力強い天使たちを率いて燃え盛る火の中に来られる時に起こるとありますが、この時、神を認めない者や主イエスの福音に従わない者には永遠の破滅と言う刑罰を与えると記されています。

   さて、滅亡の時になって神は二人の天使を送って、ソドムに住んでいたアブラハムの甥ロトを呼び覚ましました。ロトに「命がけで逃れよ」(創19:17)とお命じになられ、また「ほかに、あなたの身内の人がいますか」(12節)と言ってほかの人を救う特権を与えました。神はロトだけでなく娘婿、街にいる彼の身内も共に出ることを許されました。これでロトは金や衣や旅支度をするのをやめて、婿に伝道し、二人の娘や妻にも告げました。 私たちはどうでしょうか。他の人に救いの恵みを告げる特権が与えられているのにもかかわらず、大切な魂の救いを見過ごしてはいないでしょうか。それはこの来たるべき滅亡を信じていないからではないでしょうか。ロトは自分のことを放っておいて愛する人を救うために出て行きました。婿らは、ロトの言葉を冗談だとみなしました。人々は嘲笑いました。けれどもロトは来たるべき滅亡を目の前に信じていたので、夜中であるのもかかわらず、駆け巡りました。「時が良くても悪くても」(Ⅱテモテ4章2節)涙をもって神の言葉を伝えました。みなさん、この終わりの日を心の中に信じているでしょうか。霊においてこれを信じるために祈らねばなりません。ヨハネは離れ島にあって人との交わりを断ち、神との交わりにあって滅亡の有様を示されました。私たちもヨハネが見たように示されたいものです。

2 アブラハムの祈り

 神は創世記18章において、アブラハムにもソドムの有様を示されました。その時、アブラハムは神の怒りを引き留め、その町のために繰り返し祈りました。彼は自分のことを「ちりや灰にすぎなません」(創18章27、新改訳)と言っています。灰とは何でしょうか。それは神の前に全焼のささげ物としてささげたその焼け残りです。自分を焼く尽くし、全く献身して仲保者の祈りをささげたのです。このような信徒を神は求めています。人を救うには神の怒りの前に立つ青銅の城壁のごときものでなければなりません(エレミヤ1章18節)。神は私たちの中に祈りの霊を起こされます。霊に導かれるままに力のある祈りをささげたいものです。アブラハムはソドムを救うことはできませんでしたが、霊に感じた祈りはロトを救いだしました。ロトは来たるべき災いを示され自分を捨てて知人を訪ね回りました。人は嘲りましたが彼は戒めました。ロトはまことに私たちの学ぶべき訪問伝道者でした。パウロも家から家を巡り歩いて救いを宣べ伝えました。す

適用

  ずいぶん前のことですが、英国で一人の信徒が、馬に乗り、旅をしました。その道で強盗に遭いました。「金を出せ」と言うので金を出しました。「馬を渡せ」と言うので馬も渡しました。強盗が立ち去ろうとしたとき「ちょっと」と呼び止め、救いを説き始めました。神の恵みに背くことは恐るべきことであると戒めました。

  いまあなたが神は創世記18章において、アブラハムにもソドムの有様を示されました。その時、アブラハムは神の怒りを引き留め、その町のために繰り返し祈りました。彼は自分のことを「ちりや灰にすぎなません」(創18章27、新改訳)と言っています。灰とは何でしょうか。それは神の前に全焼のささげ物としてささげたその焼け残りです。自分を焼く尽くし、全く献身して仲保者の祈りをささげたのです。このような信徒を神は求めています。人を救うには神の怒りの前に立つ青銅の城壁のごときものでなければなりません(エレミヤ1章18節)。神は私たちの中に祈りの霊を起こされます。霊に導かれるままに力のある祈りをささげたいものです。 

  アブラハムはソドムを救うことはできませんでしたが、霊に感じた祈りはロトを救いだしました。ロトは来たるべき災いを示され自分を捨てて知人を訪ね回りました。人は嘲りましたが彼は戒めました。ロトはまことに私たちの学ぶべき訪問伝道者でした。パウロも家から家を巡り歩いて救いを宣べ伝えました。命を求めるなら差し上げます、と言って身を突きだしました。これは実話です。私たちはこれだけの覚悟はあるでしょうか。 エゼキエル書3章18節に人が「悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、・・彼の死の責任はあなたに問う」とあります。もし告げたなら「あなたは自分の命を救う」(19節)とあります。私たちは霊において人の魂の真の状態を見て、世の終末のさばきの事実を知って、復活を生きるように祈り、働く者でありたいものです。


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