「渇く者に水を与えよ 」
私たちの務めは荒野で渇いている人に水を分け与えることです。その事を考えると、自分の力だけに頼るのがいかに愚かな事かと思いませんか。私たちはモーセのように神の力に頼らなければなりません。自分の力にと頼る者は、必ず不平、不満を持ちま。
1 神の出番
当時、荒野にいたイスラエルの民には水いちじくもなく、種を蒔く大地もなく、ぶどうもなく、ざくろもなく、また飲む水もありませんでした。近い将来はまさに死ぬばかりです。そこで民は不満を持ち、集まって、モーセとアロンに迫って、抗弁しました。私たちの周りに同じような状態に陥っている教会が満ちています。教会の教勢力は衰退しています。洗礼者が年間を通じてまったくいない教会が増えています。このまま行ったら教会は滅んでしまいます。荒野でモーセに引き連れられた三〇〇万人ほどは水のない荒野でさまよっていたのです。水がなく、望みがなく、死より他に道がありません。手立てがありません。
ダビデもユダの荒野にいた時同じ経験をしました。彼はこう言います、「神よ、・・わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしの体は乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています」(詩編63編2節)。その時に、神はご自身を啓示されました。人間の力が尽きた時、神の出番となります。「主の栄光が現れ」たのです(民数記20章6節、13節)。人間の望みもない所で、神は現れます。望みのない所は、いつでも望みに満たされるところとなるのです。失望のところが、大きな満足を得るところなのです。「谷あいの野に泉を湧き出させ、荒れ野を湖」とするのです(イザヤ41章17節)。これが神の働きです。ですから飢え渇き地を見るのです。日本の教会の悲惨な状況を見るのです。世界の情勢を見るのです。人間の目から見て、望みがあるでしょうか。いいえ、ありません。けれどもそこで神はご自身を現されます。ご自身が聖なるものであることを現されます。神は「岩を水のみなぎるところとし、硬い岩を水の溢れる泉とする」お方です(詩編114編8節)。ですから神を信じて望みを持つのです。モーセとアロンの前に迫ってきた会衆は彼らを侮り、不満を爆発させました。人々はもしあなたに迫り侮るなら、それに答えずに去って神の前に出たいと思います。モーセとアロンには水を作る能力はありませんでした。そこで神の前に出たのです。人がつぶやく時、どうしますか? 一緒につぶやきますか? 反論して争いますか? いや私たちは議論するのではなく、協議するのではなく神の前に退き、柔和に祈りました。その時に、主の栄光が現れるのです。そして二人は勝利を得ました。この時、神は民を咎めず、忍耐をもって扱われ、かえって、憐れまれました。
2 神の導き
どのように神は民に水を与えたのでしょうか?飢え渇く者を癒す神に導かれるには、神の命令を聞かなければなりません。そうでなければ私たちの働きはむなしいものです。神は高慢な者が砕かれるまで、ご自身を現しませんし、水を与えないのです。私たちはただ神の力、神の命令、神の導きに従わなければなりません。その命令とは何でしょうか?「杖を取って会衆を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せ」と命じることです(民数記20章8節)。
第一に、「杖」を取ることです。それは、その杖は「芽を吹き、つぼみをつけ、花を咲かせ、アーモンドの実を結んだ」復活の杖です。水を出すのは復活の杖を持ち、復活を生きる必要があります。それは主の戒めを信じて生き、実践することです。
第二に、「岩」の前に人々を集めることです。岩とは、出エジプト記17章6節を見ると、「打たれた岩」でした。すなわち、イエス・キリストの前に人々を集め、十字架につけられた「砕かれた岩」である主イエスを示さなければなりません。それによって民は生ける水を得ました。ですから十字架を宣べ伝えるのです。神の愛、救いの道、罪の赦しを明らかにしなければ水は流れでないのです。
第三に、岩に命じるのです。それは、命令の祈りです。信仰の祈りです。内なる聖霊に頼み、命じる祈りです。
適用
私たちは多くの人の前に十字架の主を見せ、大祭司である主により頼まなければなりません。復活を生きるために主イエスの命じられた事に忠実に従い、実践しなければなりません。そうすれば、水が多く湧き出、渇く者の渇きを癒すことが可能です。世界中の荒野に命の水を流れさせましょう。私たちはそのための通り良い管となろうではありませんか。