「神の御旨による金銭の使用法 」
熱心な信徒であっても金銭の取り扱いに関せて十分に考えていない人がおります。私たちは信仰生活をする際に、神の考える金銭取り扱いがいかなるものかを絶えず考えていなければなりません。このことについて考えてみたいと思います。
1 心がけるべきこと
金銭をどういうふうに使っているかで、その人の魂の状態がわかります。他の点から見ると、見誤ることも、この点から見ると、その人が真に神を信じ、また人を愛しているかがよくわかります。金銭は神の恵みですが、人を堕落に誘うものでもあります。もしそれを神の栄光のためにささげるならば、世と肉の欲に打ち勝つことができますが、ただ自分のために費やすならば、肉の欲を満たすか、驕る心を生むようになります。私たちは肉に歩むのでなく、霊に歩むものでなければなりません。また他の人に愛と憐れみを表わすために金銭は必要なのですから、そのことを考えて自らを制御しなければなりません。金銭によって弱っている人に健康を与え、失望している人を慰め、喜びを与えることができます。金銭は生きた種で、それをどう撒くかによって、他の人に30倍、60倍、100倍の実を結ぶことができます。 18世紀の英国の伝道者のジョン・ウェスレーは説教の中で、三つのことを教えています。第一に、できるだけ儲けよ。第二に、できるだけ貯蓄せよ。第三に、できるだけ他の人に与えよ。これらを実行する人は知恵のある人です。
2 蓄えること
第二の「貯蓄せよ」を熱心な信徒であっても軽視することがあります。非常事態が起きた時のことを考えて、当然しなければならないのですが、ある人はこう言います、「その時は神に頼めばいい、神は必ず道を開いて、必要なものを与えて下さる。だから神に信頼するほうが良いのではないか」と。なるほどまさにその通りなのですが、自分の必要な負担を各自が負わねばならないことは神の御旨であることを忘れてはなりません。聖書では、失業後のことを速やかに考えて準備した「不正な管理人」は主人にその不正なやり方に関してではなく、その賢明さに関してほめられました(ルカ16章8節)。私たちは将来の必要のために現在の収入の中から貯蓄をしなければならないことを、蟻から学ばねばなりません。「蟻は夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食料を集める」(箴言6:6-8)。エジプトに飢饉が来る前に、神は十分な備えをさせるために、豊作の時にヨセフを送りました。今まで無駄金を使っていた人が、自分を制して来たるべき必要のために貯蓄することは、決して信仰が薄いのではなく、かえって欲望に打ち勝つ力の大きさを示すものなのです。そのことを決心しないならば、誘惑に負け、すべてを使ってしまいます。」家族のいる人は特にこのことを心掛けなければなりません。貯蓄がないと長期間の病気や事故で入院した際、子どもや親族のいる人は彼らを面倒みられなくなります。「親が子のために財産を蓄えなければならないのです」(Ⅱコリント12章14節b)。将来の必要のために貯金をしないことは、神の前に罪を犯しているのです。聖書はこう言います、「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています」(Ⅰテモテ5章8節)。このパウロの指示は、非常に人間的であり、教会生活にとって必要なことです。そこで皆さんは幾分かの財産を所有するまで、収入の十分の一ずつ貯蓄することを心がけねばなりません。これは欲望に打ち勝ち、品性を養うことにもなります。
3 できるだけ与えよ
神の性格を備えた人は人に与えることをしなければなりません。神はその独り子をも与えてくださいました。自分の大切なものを人に与えることによってキリストの恵みを人に現すことができ、それによって自分も恵みに満たされます。神のために時間や金銭を人に与えるのです。パウロはエルサレムの教会宛にこう記しています、「私がそちらに着いてから初めて募金を行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自の収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい」(Ⅱコリント16章2節)と教えています。
適用
神はイスラエルの民に、収入の十分の一をささげることをお求めになりました。にもかかわらず彼らは収入の三分の一にあたるほどの多くのささげ物と初穂をささげました。十分の一の定額をさげることは妥当なことです。これは義務的のものでなく、愛に基づく自由な心からすべきことです。私たちの心は欺きやすいものですから、定まった考えをもって進むのでないと、神の前に盗みの罪を犯しやすくなります。