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「金の燭台 」

今日は、聖霊に満たされた者の生涯はどんなものでしょうか。


1 神の願い

預言者ゼカリヤは「七つの管のついておりその上に鉢があってともし火皿のある金の燭台とそのそばにある二本のオリーブの木」を見ました。けれども彼にはその深い意味がわかりませんでした。神は彼を金の燭台としたいと願われたのでした。燃やして光を人に与える者にしたいと願われたのです。神はモーセに燃える柴にしたいと願い、燃える柴をお見せになったようにです。今、神は私たちを金の燭台にしようとしておられます。

2 神の恵みの注ぎ

 第一に、金の燭台の「金」は天に属するものを表徴します。聖徒は、新生によって尊い性質をいただき天に属しますが、燃やされていないならば、光を出すことができません。神は天に属する者を用いて光をともされます。燭台だけなら、闇を照らすことはできません。自分の力だけでは火を照らすことはできません。神はユダの総督でエルサレム神殿の再建者・ゼルバベルに霊の力、霊の光を与えようと幻を見せ、「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」と告げられました(ゼカ4章6節)。私たちが自分の力を用いて何事かをなすのでなく、絶えず天からの油注ぎを受け、それによって御用にあたることです。この燭台は絶えず二本の生きたオリーブの木から油が注がれ、絶えず光を照らしました。主と共にある時、私たちは主から出る霊によって光を照らすことができます。神は溢れるほどの恵みを注いでくださいます。「わが杯は溢れます」(詩編23編5節)。敵の前でも、溢れる恵みを注いでくださいます。

第二に、主イエスは絶えずともし火の芯を見守り、黒く焦げた部分を切り落としてくださいます。またオリーブの木よりともし火皿までに至る7つの管が詰まっていないかを点検しなければなりません。

3 管の詰まりの点検

①聖別 イスラエル人は当時十分の一のささげ物をしなかったために、神の恵みが止まってしまいました。もし魂に渇きを持ち、潤いがないというのであれば、その原因を捜すべきです。罪はないでしょうか? イスラエル人のようにささげ物を怠ってはいないでしょうか?どうか神の御前に自分をささげて、聖別されましょう。偶像礼拝、この世に染まりすぎてはいないでしょか?

②信仰 心の目で神の愛を見ないならばともし火は消え、暗くなります。どうか信仰をもって心の目を明らかにしましょう。

③祈り 祈りを怠れば、管は詰まってしまいます。神の油を絶えず受けるのは祈りを怠るわけにはいきません。漠然とした頭だけの祈りにとどまるなら、神の恵みはやってきません。

管の詰まりがなくなれば、私たちの心であるともし火皿は、いつも油で満たされます。知恵と悟りで満たされます。そしてまた油を入れるこの皿も絶えず清めていなければなりません。心がサタンの惑わしに乗らないように守らねばなりません。

適用

クリスチャンは金の燭台です。しかし聖霊を受けるまで、光を放つことはできませんでした。福音を宣べ伝えることもできません。暗闇に光をともすことができなかったのです。金の燭台に油はありました。けれども火がつけられていなかったのです。ペンテコステの日に炎のような火が降り、弟子たちはともされました。絶えず光る燭台となるには、新たに生まれ、霊の油を受けるだけでなく、聖霊の火を受けねばなりません。主に来ていただきともし火の火をつけていただくのです。聖霊の炎を受けるのです。今、信仰をもって身も魂もささげて、火のバプテスマを受け入れましょう。


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