「不都合に見舞われても 」
物事が思い通りいかないと、つい我慢できなくなり、イライラしてしまうことがあります。イエスの誕生の時代、ローマの皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録せよとの勅令がでたので、ヨセフと身重のマリヤはガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムという町へと上って行きました。ところがベツレヘムには彼らの泊まる宿がなく馬小屋にて子どもを産んだのです。
思い通りに宿も取れない経験を彼らはしました。このとき彼らはじじっと耐え忍んだのです。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(ヤコブ5章7節)とあります。忍耐とは、待っている間にもイライラせず、正しい態度を持ち続けることです。人生のほとんどの時間が待つこと費やされるからです。
1 祈りと待つこと
何か必要があると私たちは祈ります。そして必要が満たされるとひたすら待ち続けます。やがて祈りの答えが与えられると喜びが溢れかえります。やがて一つの目が達成すると、さらに次の目標をめざしてじっと待ち続けます。喜びを得るのは、達成されたときだけでなく、待つ間もまた楽しんで過ごせたら幸いです。それには忍耐できなければ得られません。
世の中のものがすべて完璧ではありません。自分の人生には、何の不自由も妨げもあってはならない、嫌いな人だって本来いるべきではないと思っている人はいないでしょうか。この間違った考えをサタンは心に植えつけることで私たちを破滅させようと企てようとしています。だからと言って否定的に生きよと言うのではありません。
肯定的に生きることは大事ですが、現実的でなければならないのです。この世の中に完璧なものなどありません。この事実を受け止めれば、現実的に物事を受け止められます。そうすれば不都合が生じるごとにイライラすることは無くなります。イライラする原因は、自分が持っている理想と期待が膨らみ過ぎて、現実的でなくなっているからです。この世界には、苦難や試練や災難、いらだちがついて回るものですから、様々な状況を対処していくべきです。不完全さはつきものですが、神の愛に留まり、聖霊の実を結んで生きていれば、どのような事にも対処できます。私たちのなすべき役割は、問題が起きないように状況をコントロールすることではなく、たとえ問題が起きても正しい態度で対応することなのです。
2 忍耐は試練の中で生まれる
忍耐とは、聖霊の実であり(ガラテヤ5章22節)、救いを体験して新しく生まれ変わったすべてのクリスチャンに与えられるものです。ヤコブは困難な状況に遭遇する時には、「さまざまな試練」により忍耐が養われることを思い出して、むしろ喜びなさいと言います。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会う時は、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(ヤコブ1章2~4節)。
忍耐を養うためには、まず向き合うものは、自分の内側から湧き上がるプライドや、怒り、反抗心、自己憐憫、不平不満といった「神様の性質とは正反対の思い」です。忍耐を養うにはそれらと向き合う必要があります。
些細な不都合にも耐えられず、すぐに動揺ばかりしていてはそれ以上の大きな不合理に対して戦うことはできません。更なる戦いのために些細なことにために忍耐が働くように訓練を受けねばならないのです。
「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」(ヘブル10章36節)この聖書の箇所からわかるように、忍耐と我慢の姿勢を持たないなら、神様から約束のものを受け取ることはできません。
適用
プライドの高い人は、どんな時にも自分の力で突き進んでやろうとします。プライドは、心の中で「いつでも自分のやりたいようにやろう」と叫んでいます。 でも謙遜は、こう叫んでいます、「神様の時がベストタイミング、早すぎも遅くもない」と。そして謙遜な人は、忍耐強く神の時を待ち続けます。