「出て行って実を結びなさい 」
イエスは弟子たちにこう教えました、「あなた方は出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである」(ヨハネ15章16節)と。主イエスの名の中で求めることは、私たちが主の中に住み、主と主の言葉を私たちの中に住まわせて、真に主と一つとなることを必要としています。このような求めは、実を結ぶことと関係があります。必ず父なる神によって答えられるからです。
1 実を結ぶには
実を結ぶには、神が与えてくれたチャンスに対して正しく応答することです。それが「責任」と言うことでもあります。新しいチャンスを与えられて、期待に胸ふくらんでも、いざ挑戦してみると、たのしいことばかりではないことに気づき、途中であきらめてしまい目的を達成しない場合がほとんどです。アブラハムの父テラは、アブラハムとその嫁、息子ハランの子ロトを連れてカルデアのウルを出て、カナンに向かったが、ハランまで行くとそこに住み着き、カナンには向かわなかったのです。
私たちも同じ傾向を持つ人が多くいます。目標を達成するには、それに伴う責任を負わなければ達成感を味わうことはできません。
責任を負うという事は、生まれたての赤子にはできません。成長するに伴って増えていきます。そこで親の大切な役目は、子供に責任を担う事を教えることです。天の父も私たちにそれを望んでいます。音楽ミニストリーの働きを与えられている方々もおります。それだけ聞くととても華やかなミニストリーと思うかもしれません。しかし実際は多くの「責任」が伴う働きです。そのためのチラシ、ポスターの印刷、発送、チケット販売などの業務をこなさなければなりません。ただ「ハレルヤ」と合唱しているだけではありません。精一杯仕事と向き合ってベストを尽くさなければ実を結ぶことはありません。
2 注意すべきこと
怠け癖があっては、実を結びません。箴言6章6節では、「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ」とあります。人から言われなくても行動しなければなりません。周りの言葉やプレッシャーに押されて行動するのでなく、自分の思いによって突き動かされて行動すべきです。私たちは忠実に生きるなら、神は時が来たら必ず報いて下さいます。多くの人は神に呼ばれ、神に仕えるチャンスをもらっていますが、実際にその呼びかけに応答し、責任を受け止め、神に仕える人は少ないのです。呼びかけを聞いたら、すぐに立ち上がって行なうことです。
「風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない」(コヘレト11章4節)とあります。すべてが万全な状態の時を待っていたら時を失してしまいます。着手するタイミングを待っていようという誘惑にかられることがあります。そうしているうちに忘れたり、尻ごみしてしまうこともあります。「やるのは、今」ということを忘れないことです。与えられている力を用いて実を結ぶことを考えることです。
3 いつも備えておくこと
「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(マタイ25章13節)。マタイ福音書25章は、イエスが来られるまでの間、私たちをどのように過ごすべきかを譬を用いて教えています。 1節から12節では「花婿を迎える10人の娘」が登場します。そのうちの5人は備えのない行動をとり、あとの5人は準備万端の生活をしていました。
いよいよ花婿が到着すると言う時、労力を惜しんだ娘たちは、ランプの灯りが消えかかっているのに気づきました。そこで備えをしていた娘たちに油を分けて欲しいと頼みました。これは、どこでも見かける光景です。怠けていて何でも後回しにする人は、本来なら自分がすべきことであっても、誰かがしてくれるのを待っている責任感の欠けた人たちです。そのような人を「怠け者の悪いしもべ」(マタイ25章26節)とイエスは呼んでいます。 私たちが神に委ねるべきことは「心配事」であって、「責任」ではありません。自分が負うべき責任まで、神に委ねてはならないのです。
適用
私たちは神に願い求めたものを受け取ることができますが、そこに責任も伴う事を忘れてはなりません。神は皆さんが自分のことをしっかりと管理することを望んでおられます。何かを決断する時は、感情面と実用面の両方を見る必要はあります。ただ欲しいと思って購入することばかり考えても、その維持費や管理をどうすべきかを考えなければならないのです。このバランスが大事です。そうでないと失敗します。ただ「欲しい」という気持ちだけでは不十分です。それに伴う責任を負う準備ができていることも必要なのです。どんな時にも責任ある行動がとれる者として出て行き、実を結んでいきましょう。