「疑い深い不信仰な心 」
疑いと不信仰とは同じではありません。疑いは,どっちつかずの状態で決定しかねる思いです。これに対して不信仰は神の従わない姿勢と言えます。サタンはこれらを用いて私たちに攻撃してきます。これらにどう向き合っているでしょうか。
1疑い
病気になった人に対して、ある人はいやしに関するみことばを引用して病気に立ち去るように命じ、いやしの奇跡が起こるのを信じるのですが、その間にも疑いと言う敵が何度も攻撃を仕掛けてきました。 やがて失望し始めました。サタンは「おまえがいやされるはずなどない。みことばをどれだけ宣言しても無駄なことだ」と言います。サタンはこのように疑いの心を植え付けようとしてきます。
この疑いは、神がなすものではありません。聖書は「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。・・・そういう人は心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」(ヤコブ1章7~8節)と告げています。サタンはこの疑いの武器を用いて攻撃し、与えられている信仰を否定しようとするのです。殊に疑いは、神の言葉に対立する考えともって私たちの中に忍び込んできます。よって「心に植え付けられたみことばを受け入れなさい。このみことばは、あなたがたの魂を救うことができます」(ヤコブ1章21節)とあるように、神の言葉をよく知ることが私たちの大きな力になり、サタンの嘘を見抜くことができるようになります。
サタンの嘘はみことばと相反するものだからです。サタンがそうするのはイエスが十字架の死と復活を通して、私たちの為に勝ち取ってくれたものを盗むためです。したがってアブラハムが神を到底不可能な事に思えても、神を少しも疑わず、ひたすら神の約束を信じたように生きるべきです。たとえ信じても疑いの攻撃にさらされ、神に背くようにと圧力がかかる時があります。「神の背く」とは、あきらめるということです。
しかし彼は神を賛美し続け、神に栄光を帰すのをやめませんでした。あきらめなかった結果、彼の信仰は強められたのでした。いま皆さんは何の為に礼拝に来られているのでしょうか。神の栄光を崇め、神に従うためではありませんか。しあわせを得るためではありませんか。それならば横道に逸れないことです。人間関係や、働きの上での意見の違いなどで神への敬虔と献身の思いを放棄してはならないのです。忍耐がないとすぐに放棄してしまいます。神は、必ずできると信じる信仰を与えてくださいます。信仰で満たされるのを恐れているのは、サタンです。それを阻止するためにサタンは疑いと不信仰をもって攻撃してきます。皆さんに信仰がないのではありません。信仰を破壊しようとする、サタンの嘘に惑わされるのです。信仰は、霊によるものです。つまり、霊的な力を備えています。信仰をもつとビジョンが与えられ前向きになります。しかしそれはサタンの王国にとって大打撃です。敵であるサタンはそれをよく知っています。
2 迷いは禁物
自分の置かれている状況に目を向け続けると失敗してしまうことが多いものです。先を見るのです。アブラハムは現実をよく理解していました。しかし彼の信仰は自分の思いをただ神にだけ向け、委ねました。意識的に自分を建て上げることに心を向け、信仰を強めていくことが大事です。
そのためにも神を賛美し、栄光を帰し続けねばならないのです。たとえ逆境の中にあっても、自分がすべきことをやり通せば、それが「神に栄光を帰すこと」に繋がるのです。サタンは、あなたの人生に怖がらせるために嵐を引き起します。嵐の中で踏ん張る時、頭の中の思考が戦場であることを思い起こしてください。ですから自分の思いではなく、霊に目を向けるのです。それにはどこか静かなところに行って、心を静め、頭のスイッチを切ってみることです。それから再び自分の心と向き合うのです。するとそこにあるものが見えてきます。それを実行するのです。示されたものに対して従順に前へと踏み出すと将来を手にすることができます。
イエスは弟子たちに「もしあなたがたが信仰を持ち、疑わなければ、私がしたのと同じことを、あなたもできるようになります。また、それよりもさらに大きなわざを行なうようになるのです」」(ヨハネ14章12節)と言われました。
信仰は神からの贈り物ですから、私たちには信仰があると確信して良いのです(ロマ12章3節)。一方で、「疑い」は選択肢の一つで、仕掛けられた悪魔の策略です。したがってただひたすらみことばに信じ従い続けるのです。 不信仰とは従わないことです。主の弟子たちはてんかんの子どもの悪霊退治をするのですができませんでした。イエスがそれをすると悪霊はたちどころに退散しました。そこで弟子たちは不思議がるとイエスは「信仰が足りないからだ」と言われました(マタイ17章14~20節)。疑いと同じく、不信仰は神の計画の実現を妨げます。永遠の安息に入るのは、信仰に生きることです。不信仰は、荒野の中に閉じ込めます(ヘブル4章11節)。
適用
サタンに耳を傾けそれを信じることで、自分自身を不幸な気分にさせないことです。ネガティブな思いで溢れていて、同時に喜びや平安を持つことは不可能な事です。したがってサタンではなく神を信じるべきです。信仰から疑いへ、疑いから不信仰へと生きるのでなく、信仰から信仰へと生き、惨めさを感じないことです。二心の人はすべての面で安定がなく、イエスが与えようとするものを受け取れません。サタンの嘘に騙されて、神の予定されているあなたの人生の最高の計画を奪い取られないように気をつけましょう。