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「 失われた聖域の回復と拡大」

    私たちが魂(思い・感情・意志)の活動を磔殺し、内側の奥深くにある人の霊の中に命を与える神の霊(聖霊)を宿し、そこを唯一の礼拝の場所として保つ時、一致が与えられます。ところがそれを妨害するために魂の活動を促進させる時、一致は損なわれるのです。ある人は礼拝の美名の下に、礼拝を捧げるかもしれませんが、そこには偶像が置かれてあるのです。それは、悪霊に供え物を捧げることでした(Ⅰコリ10章20節)。それは分裂をもたらす肉の業でした(ガラ5章19~21節)。その結果、神の聖域は、縮小し、失われて行きます

 

 

1 一致が保たれる方法

 

     使徒パウロは『ローマの信徒への手紙』12章で兄弟たちがなすべき礼拝、神の喜ばれる礼拝の持つことについて語っていますが、それには一致が保たれる必要があります。そのための原則は、信仰の弱い人たちを受け入れ、その考えを批判せず、悪に悪をもって返さず、善を行ない、すべての人と平和に暮らすこと、復讐せず、神の裁きに委ねることです。 にもかかわらず教会ではいろいろな問題が起ります。ギターで演奏するのは礼拝にはふさわしくないと主張する人もいます。大声で祈るのも良くないと指導する人もおります。他の人たちはそれに反対する場合もあります。これで礼拝が継続できなくなり、分裂するのです。

    だれもかれも自分たちと同じくなるように期待するからです。そかしそれを期待すれば教会生活を送ることは不可能です。教会はあらゆる種類の人を包む所でなければなりません。パウロの態度は、「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」(ロマ14章6節)でした。これは私たちが採るべき態度であるべきです。自分たちと同じようにしようと試みるのでなく、それが主のためであるかを確認しさえすればよいのです。禁じたりすべきではありません。

 しかし主イエス・キリストに関係のないものを聖域に持ち込むと礼拝は力が縮小し、キリスト以外の偶像が満ち、ひいては悪霊は跋扈する教会となってしまいますから、一つ一つ確認し、自分の考えと異なる事柄を重んじる人の考えの根拠を尋ね、確認する必要があります。

 

(2)神の修繕愛

 

     旧約聖書は聖域が荒らされ、一致が損なわれることを啓示するだけでなく、この回復と証しを啓示しています。これを「神の修繕愛」と呼ぶことができます。預言者エレミヤは神の民がバビロン捕囚の70年後に、良き地エルサレムに連れ戻されるであろうと預言しました。「主はこう言われる。バビロンに70年の時が満ちるなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」(エレ29章10節)。エズラ記1章1節ではペルシャのキュロス王の心が主によって動かされ「エレミヤの口によって約束されたことを成就する」ためにエルサレムに主の神殿を建てるために全国に布告を発したことが記されております。この帰還は人によって始められたのでなく、神御自身によって始められたのでした。

  神の民がバビロンにいた時、神の犠牲を捧げたことはありませんでした。犠牲を捧げる聖域、祭壇がなかったからです。哀れな状態で詩編137編1節では「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた」と言っています。一致の立場が失われ、神の民は良き地のもろもろに豊かさ、祭壇、祭りを失いました。これは今日でも同じで、聖域がキリスト以外のもので満たされると、主にある豊かさ、祈りの祭壇、勢いのあった礼拝も失われ、人も減少し、祈りの祭壇は崩れ去り、教会の扉はいつも締め切ったままになってしまいます。

  神の民が帰還するよう神が立ち上がった時、失われていたすべてのものが自動的に回復しました。神殿は修繕され、祭壇はもとの場所に設けられ、献げ物を捧げる道が備えられました。 そして自動的回復の結果として、神の民が異邦の民との結婚をしなくなりました(エズラ9章12節、10章3節)。彼らの良心がそうした不敬虔な行為をもはや容赦できなくなったからです。この原則によりキリスト以外のものを聖域に持ち込まないように注意する生活をしますと、用心深くなり、みことばと賛美を求める思いが増し加わり主の御名を求めるようになります。そして多くの消極的な事柄が落ち出し、誰が命じるのでもなく、非難するのでもなく、自然に積極的な事柄だけが回復されるようになります。主の家の大庭に住みたいと思う願いが増すと人の霊を含む聖域からキリストに関係のない消極的な事柄、それがたとえいかに高価なもの、役に立てそうなものであって捨て始めるようになります。

  その霊的判断が豊かになるのです。それは「主の臨在」の感覚が鋭敏になり、主が共におられ、「歩むべき道、なすべきことを示していただける」ことを求めるようになるのです(エレミヤ42章3節)。 神に連れ戻された民は笑いと喜びとで満たされました。イザヤ35章10節、51章11節は言います、「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」と言明します。イザヤの時代はまだバビロン捕囚は起こってはいませんでした。にもかかわらず、イザヤは贖われた民の喜びを予見しました。

 

(3) 万有網羅

 

      一致が与えられるということは、万有網羅でなければなりません。宗教改革者ルターは分析の天才と言われましたが、古代の大教父のアウグスチヌスは総合の天才と言われました。聖域にあるものはキリストから出たものをすべて包み込むのです。しかしそれ以外のものを分析し、捨て去るのです。消極的事柄を取り込むと分裂が始まるからです。これを実行する時、聖域は拡大します。

 

適用

 

  主の証しは、この霊的一致、キリストの復活を信じてキリスト以外のものに頼らず歩むことの回復です。自己改良の努力によるのではありません。私たちは聖域を改良しようとするべきでしょうか。そうすれば失敗するでしょう。主の証しは、主の働きの証しです。私たちの努力の証しではありません。内側に語りかける主の導きの報告です。もし私たちがいつまでもバビロンにとどまっているなら、主の証しを持つことはありませんし、証しすることもありません。

 

 

 

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