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「 恵みを経験する日常生活」

使徒パウロが書いたどの書簡も、みな恵みについての言葉で始まり、恵みについてのことで終わっていることにお気づきでしょうか。この恵みと言う言葉は厳密な意味で、新約聖書の特有な言葉です。そこで恵みを経験する生活とはどのようなものかを考えたいと思います。

1 恵みとは

(1)神の愛の具体化である

多くの人は恵みとは物質的祝福と考えています。受けるに与えしない何かを受ける物質的な恩恵です。例えば、大きな家、立派な車、良い仕事に恵まれたと数え上げるのです。ところがパウロはフィリピ3章8節で言うには、キリスト以外のあらゆるものは「塵あくた」に過ぎないと言います。 神の本質は愛ですが、この愛が表現される時、それは恵みとなります。恵みは、表現された愛です。神の中にある愛が、私たちの所に来るとき、それは恵みとなります。愛は抽象的ですが、恵みは具体的なものに転じます。 例えば、ある貧しい人が来たなら、憐れみを持つかもしれません。ところが食物や衣服を与えないなら、せいぜいその人を愛すると言えるだけです。彼に対してそれは恵みではありません。 ところが一杯のごはん、一着の衣服、幾らかのお金を与えるなら、あなたの愛は恵みに変わります。愛は内側にあり、恵みは外側にあると言うことです。愛があっても恵みを届けることのできない人は多くいます。 「あなたにお金を与える計画がある」という言葉はありがたい愛の言葉です。お金をもらった時、その愛の言葉は恵みとなります。恵みは外側の行ないです。愛するだけでは恵みの要素はありません。人が問題を持ち、こんなに陥っている時にのみ、神の愛は恵みとして実現します。愛は、流れ下る時だけ恵みとなります。愛は流れ上ることもできますが、その時、恵みは現われません。神の上にいたい、あるいは神と等しくあろうと願う人には、恵みは現われません。下の方にいないと恵みが現れません。神の愛は主イエスのみわざを通して恵みとなったのです。

(2)手順を経られた神である

また恵みはイエス・キリストを通して来た、と言います(ヨハネ1:17)。神の言葉が肉体となって、私たちの間に宿った時、直訳では、幕屋を張った時、恵みもまた来ました。このことは恵みが受肉した神と共に来たことを意味します。つまり、キリストの受肉前、恵みはまだ来ていなかったのであって、受肉を通して恵みは来たのです。

 使徒4章33節では「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」とあります。直訳では、「大いなる恵みがすべての者の上にあった」となっています。復活の中の大いなる力が、大きな恵みであったことを示しています。それは復活の中のキリストが恵みであるということです。それは仕事とか家とか、車ではなく、信徒達によって受け入れられ、享受された神です。

 使徒11:23で、バルナバはアンティオケに行くと、そこで「神の恵みの有様を見て喜んだ」のです。直訳では「神の恵みを見て喜んだ」となっています。バルナバは、物質的祝福を見たのでなく、信徒達がキリストの中の神を経験している有様を見たのです。

2 いかに恵みを経験するか

 キリストが私たちに命の供給をすることを教理的に知ることはできます。しかし実際的であるかは別の事柄です。いくようなものです。キリストの体も同じくやがて一つとなっていきます。

⑴祈り

ある兄弟が妻との確執で相談に来たとします。エフェソ5章の夫と妻に関するパウロの言葉をもって、あなたは勧めをするかもしれません。しかしその教えは、恵みを全く欠いているのです。必要なのは命を供給し、共に祈ってくれる人です。祈ることを学ばなければ恵みを経験しません。恵みは主に祈る時、主から来るのです。

 ある教会で二人の兄弟が金銭問題で深刻な意見の食い違いを起こしました。一人の兄弟は、他の兄弟が彼に相当額の負債を負っていると訴えました。返してほしいと訴えたのです。他の兄弟はそれを否定しました。遂に論争にまで発展しました。

 これはもし彼らが主の恵みを受け入れたら、喜んで負債を忘れようとするでしょう。教会の法廷は誰が正しいか、誰が間違っているかに注意しません。不満があるなら必要が満たされるために恵みが供給されるように祈るのです。もし主の恵みを受け入れるなら、主を賛美し、喜んで問題が解決したと見なすのです。ですから祈ることです。み言葉に沿って神の思いと一致するように祈るのです。自分に結論を合わせるのでなく、神のみことばに合わせるようにするのです。奏すれば問題は必ず解決します。そして主の恵みの饗宴にあずかることができるのです。

⑵教会の中にとどまる

主の恵みを享受するには、この世の法廷で問題を解決することを断念することです。祈りと教会生活のとどまっていると天来の恵みが滴り落ちあふれるばかりの恵みで満たされます。神の恵みは教会生活を通してやって来ます。ある人は教会の重要性を忘れており、祈ったり、聖書を読んだりするのは教会の外でもできると言います。 確かにある程度の恵みを受けます。しかしその程度の恵みは、教会で受ける恵みほど甘くも、豊かでも、力強くもないし、活気もないし、十分でもありません。教会生活から離れる人は、恵みの全き供給から切り離されています。この世に逆戻りしてしまいます。教会生活が取り立てて豊かでないと思われない時でも、教会に行くのです。参加するだけで、潤いを受けるのです。

適用

教会に行くのも去るのも自由だと思っている人が多くいます。それは間違いです。教会は真の一致を生み出す場所です。真の一致とは、手順を経られた三一の神と信徒との混ざり合いです。天来の恵みが供給され続ける時、分裂は不可能です、争うが起こるはずもありません。 主の名を呼び求める時、主の恵みは滴り落ち教会を潤します。そこに集まる信徒たちは造り変えられ、分裂を経験しなくなるのです。豊かさを経験するからです。


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