「 完全な一つとなる油塗り」
一つとなることは深遠で難しいことなのでイエスは弟子たちに祈りをささげました。それがヨハネ福音書17章です。具体的のどのようにして私たちは一つとなって麗しい友愛に満ちた兄弟姉妹の関係を築いていくべきでしょうか。
1 混じり合い
イエスの観念では「父よ、あなたがわたしたちの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハ21章21節)というものです。父がこの中におり、子が父の中にいることにより一つとなるとはどういう意味でしょうか。22節では続けて「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」と言います。イエスと弟子達もまた一つとなると言うのです。その要因は、栄光です。そして23節で「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と言います。 ここから信徒たちは単なる寄せ集められて一つとなっているのでなく、存在そのものが一つとなるように変えられていくということです。そのよう成長の課題が信徒達には絶えず与えられているということです。それは祈ることによって与えられるものです。
パウロもまた同じように祈っています。エフェソ3章14~21節で、父が聖霊によりキリストを人の内に住まわせるように祈っています。すべての信徒の内側にキリストが住み、神の本質である愛に根ざして立つ者となり、神の豊かさにあずかり、満たされ、その結果、神の栄光を帰すことができるようにと祈っています。そして4章1節で、神の招きにふさわしく歩くようにと言います。「ふさわしく歩く」とは、聖霊にあって一つとなることです。そして4節から6節でパウロは、その霊が一つであるのは神御自身の唯一性によるのだと指摘しています。体と三位一体の神とが一つであると述べているのは、神と信徒とが混じり合いであることを示しています。これは手順を経られた神が信徒との混ざり合いです。
イエスの復活前、私たちは「父と子と聖霊の名によってバプテスマ」を受けることはできませんでした。イエスの受肉、人間生活、十字架、復活を通して神が手順を経られた後はじめて信徒たちは三位一体の神の名の中にバプテスマされるようになりました。こうして神は私たちと混ざり合います。これが一つとなることです。これは神性と人性の混ざり合いですが、この神性とは受肉、人間生活、十字架、復活を通して手順を経られた「後の神性」を言っているのです。21節でイエスは「わたしがあなたの内にいるように」と言っていますが、この「わたし」とは人性の中にあるイエスであり「あなた」とは神性の内にある父を指しています。従ってこの父と子の混ざり合いは神性と人性の混ざり合いであり、これが父と信徒との混ざり合いの根拠となっています。こうして信徒たちが手順を経た神と一つとなっていくのです。これが23節で言う信徒たちが完全に一つとなっていく意味です。 私たちはキリストを信じた日からこの一つとなる特権にあずかりましたが、なお天然的要素を抱えております。しかし復活の命を与える霊(聖霊)が内住し、満ちるならばこの天然的要素は減少していくでしょう。減少すればますます一つへと全うされて行くでしょう。一つとなると言うのは、バラバラの人が寄せ集められて調和された一つの集団を形成するのではなく、手順を経られた神との混ざり合うことです。
2 滴り落ち広がる塗り油
詩編133編は、ダビデによる「都に上る歌」です。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。この詩編で、信徒達が和合して一つとなって共に住むことは、アロンの頭への貴い塗り油と、シオンの山へのヘルモン山からの滴り落ちる露の計り知れない貴さに例えられています。アロンは人であり、シオンは場所です。教会は、このように人であり、場所です。人としての教会は、体を伴って頭を持ち、花嫁であり、新しい人です。場所としての教会は、神の住まいです。今日はこの一つとなる姿は、信徒達と混じり合わされた手順を経て完成された三位一体の神です。
キリストの体はそのような混ざり合いです。体には頭があり、手があり、心臓があり、足があります。それらはバラバラでなく一つとなっています。この詩編のイメージによれば、真の一つとなる姿は広がり塗り油が滴り落ちる露のように初めにうちはバラバラですがやがて一つとなっていくようなものです。キリストの体も同じくやがて一つとなっていきます。アロンは大祭司キリストを予表し、アロンの衣は主の教会、キリストの体を表徴しています。油が頭から滴り落ちるとは、復活の主の命を与える霊の油塗りを意味しています。聖霊の油注ぎを受けると、私たちは一つとされていくのです。これはなんと麗しく楽しいことでしょうか。
急激に降り注ぐ雨のように恵みは流れ落ちるのでなく、粘着性のあるペンキを塗るように静かにゆっくりとしみ広がります。塗りあげられると天然的な気質や性向は除き去られます。意見が入り込む隙もありませんから、分裂もありません。 この塗り油は、個人のためのものではなく、体のためにあるものです。従ってこの油は家にいては経験することができません。教会にいるとき降られるのです。
適用
教会生活の中で命の恵みは供給されます。使徒パウロは主の恵みを豊かに経験した人です。彼を苦しめている「とげ」が取り去られるようにと三度祈りました。しかし主は、彼の恵みは彼に対して十分であると答えられました。この言葉によって、主はとげを取り去るのでなく、十分な恵みを供給することを示されたのです。聖霊の流れ出すのを静かに待ち続け、性急に人を変えようとせず、祈り待つ事を通して命の祝福を経験するものでありたいと思います